ここで言う「使動的用法」とは所謂「使役」のことであります(ただ使役ということを広義に考えていただきたい)。漢文に於いて使役を表す方法を大きく分ければ、
の二つに分かたれます。このうち前者は巷の参考書などを見ればすぐにも了解できるものでありますから、ここでは扱いません。我々がここで扱いますのは後者の方であります。後者のものをさらに理論的に分類しようと思えば出来ないことはないのでありますが、我々はむしろ其の反対にそれらを統一的に解せんと欲するのです。すなわちいづれも現象の背景にある理屈は同様であることを茲に述べんとするわけであります。
それではまづ2、の(広義の)使動の例をいくつか見てみます。「広義」という訳は後述。
- 公子不可、姜與子犯謀、醉而遣之 (春秋左氏傳・僖公)
- 舜盡孝悌之道、烝烝乂不格姦 (十八史略)
- 林間暖酒、燒紅葉 (白居易)
- 於是伯夷、叔齊聞西伯昌善養老、盍往歸焉 (史記・伯夷列傳)
- 古我先王、將多于前功、適于山、用降我凶德、嘉績于朕邦 (書経・盤庚下)
- 欽予時命、其惟有終 (書経・說命上)
- 有其善、喪厥善、矜其能、喪厥功 (書経・說命中)
- 予其懋簡相爾、念敬我衆 (書経・盤庚下)
- 管仲以其君霸、晏子以其君顯 (孟子・公孫丑上)
- 今而後知君之犬馬畜汲 (孟子・萬章下)
- 下馬飲君酒、問君何所之 (王維・送別)
- 死諸葛、走生仲達 (三國志)
- 逞奸而攜服、毒諸侯而懼吳晉 (春秋左氏傳・成公)
- 松耶柏耶、住建共者客耶 (史記・田敬仲完世家)
このうち皆さんが使動と謂って納得できるものは、1、2、8、9、10、11、12、13、14といったところで、それ以外は使動と呼ぶに疑念がありましょう。先に「広義の使動」と申しましたのは、このことでありまして、私はここでは一致性を持った動詞も含めて使動と呼んでおるのです。語弊を畏れずにいいますと、使動も突詰めれば結局一致性を表す概念であると言うのです。「彼を奴隷たらしむ(使彼為奴隷)」とは、要しますに「彼」と「奴隷(的状態)」なる概念との一致であります。上記の赤字はすべて一致性を表す概念を帯びておる点で全く同じであります。ただ一つだけ差がある。それは何かと申しますと、臨時に帯びた一致性(生産性)の他動的客体概念が顕れておるか否かの違いであります。本サイトはもとより一素人に依るものと雖も、此れは特に私の独創である為、より一層の注意を以って読んでいただきたい。
次に、この臨時に帯びた一致性の他動的客体と言いますのは、上例のうち下線が施してあるものであります。通俗に謂えば「~を~とす」の「~を」の部分であります。この「~を」の部分が顕れておるものは一致の客体が明瞭であります。たとえば「死諸葛、走生仲達(死せる諸葛、生ける仲達を走らす)」は、「生仲達」と「走(的状態)」との一致であります。ただ8、9などのように是の客体が一致性動詞の上にある場合もありますが、其の場合は、一致性動詞の客体は非帰着化するというのみです。「管仲以其君霸(管仲、其の君を以って覇たらしむ)」の例で申せば、「覇」の客体が非帰着化しておるのです。すでに其の客体は前置詞「以」の客体として顕れておるのでありますから、再び同じ客体を示す必要はないのです。もし是の客体を上に出さない場合は、「管仲覇其君」とでもします。「其君」を上に出すか、出さないかの相違のみです。いづれの場合も背後にある理屈が全く同じであることに注意してください。即ちどちらの場合の「覇」も松下文法に所謂変態動詞の一種に過ぎないのです。
まだ慣れぬでありましょうから、8、の場合についても一緒に見てみましょう。「相爾、念敬我衆(爾(なんじ)を相(みち)びき、我が衆(もろもろ)を念ひ敬はしむ)」は、何と何との一致かといいますと、「爾」と「念敬我衆」との一致であります。「爾」が「我が衆を念ひ敬ふ」のです。「走生仲達」を「生ける仲達を走的状態とす」と考えればよいように、これも「爾を念敬我衆的状態とす」と考えるのです。ここでは「念敬我衆」の他動的客体が上に出たものと考えておりますが、実は、これは被修飾形式動詞に対する修用語と同様の考え方でもあります。「道を教えてやる」が「道を教えて(其の効果を)やる」の如き意である様に、ここも「爾を導いて、(其の動作を)我が衆を念敬すとす」の意であります。其の場合は「其の動作」と「我が衆を念敬す」との一致であります。
今見ましたのは、一致性動詞の他動的客体が修用語によって補充せられる場合でありましたが、そのような修用語すら無く、ただ文脈によって暗示せられるのみにて、全く他動的客体概念が顕れないものもあります。1、の「不可」や、3、4、5、6、7、10であります。たとえば、4、の「盍往歸焉」などは唐突の感がありますが、これは漠然たる自身の主観と「盍往歸焉」との一致であります。「曰」を補い、「曰盍往歸焉」とでもすれば分かりよい。自身の主観が「盍往歸焉」とあるのです。客観化しておらないのでありますから、もとより概念化するに至らないのです。明瞭に概念化して表すのならば、「聞之曰盍往歸焉」とでもすればよいのです。「之」は聞いた内容であります。こうすれば先の8、などと同様、「之を聞いて(其の動作を)なんぞ往いて帰せざるとす」の意になるのです。毛詩周南葛覃の「害澣害否」なども同じくこの方法で解せばよいと思う。
中国文法に「兼語文」などというものがありますが、上記の考え方ならば其れをも含みますし、「一致」という概念一本でやっていけるのでありますから、余程簡単だと思う。
更にこの「~(的状態)とす」という思想を、「~(的状態)とあり」と変えたのが被動であります。たとえば、
惟說命總百官 (書経・說命中)
「說(人臣)」が命じて百官を総べしめたのではありません。無論、そうも看做せますが、ここでは命ぜられて百官を総べるの意です。「王命說總百官(王、說に命じて百官を總べしむ)」の意です。王の立場から言えば、「說」を「總百官的状態とす」る分けでありますが、說の立場からすれば、「總百官的状態とあ」るのです。
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