以下表題にあります通り批評的な内容を含みまして、ややもすれば露骨な駁論の如き感を抱かしむるに易きも、此れは徒に対者を毀誉褒貶するの為にあらずして、ただ松下文法に準拠した場合の説との比較に便ならしむる為でありまして、こうすることで従来の漢文教授が如何に浅薄なるものであるかを明らかにしようというわけであります。

某ブログでは、まづ漢文の基本的な構造を説明し、最後に和文に読み下した文を再びもとの漢文に戻す作業である復文のやり方を紹介しておるのであります。其の説明に対して以下のことを述べてみたい。

  1. 単独論と相関論との混雑
  2. 自身の説明に於ける矛盾

一、単独論と相関論の混雑

単独論とはEtymologyのことで、相関論とはSyntaxのことでありますが、従来の参考書の類は本来明確に区別すべきこの二者を概ね混同しております。即ち、文の構造を説くに「主語+動詞+目的語」の如くしておる。「動詞」は品詞であり単独論に属すものでありますが、それに対峙せしむるに「主語」や「目的語」などの文の成分、即ち相関論に属す用語を以ってしておるわけです。異なる界限のものを同等の立場にて並列しておるのです。もし此れを松下文法に従って分解すれば、「主語+叙述語」とまづ分解され、而して後、叙述語の内部を再び分解して、「帰着語+客語」の如くすることになります。主語も叙述語も帰着語も客語も皆文の成分であります。

  • 「我愛之」の分解例

某ブログ) 我(主語) + 愛(動詞) + 之(目的語)

 

松下文法) 我(主語) + 愛之(叙述語)

叙述語を更に分解して、 愛(帰着語) + 之(客語)

この分解の仕方の差異がどういう影響をもたらすかといいますと、例えば、「泥棒を追跡する警察官」を漢訳した場合、以下の如き差が出ます。

(従来の分解) 追跡泥棒(修飾語) + 警察官(被修飾語)

「追跡」と「泥棒」がこれ以上分解できない。なんとなれば仮に分解したところが、「追跡」に対する名目がないからであります。

 

(松下文法の分解) 追跡泥棒(連体語) + 警察官(被連体語)

連体語を更に分解して、 追跡(帰着語) + 泥棒(客語)

松下文法に則れば如何なる詞と詞との関係も徹底的に分解できるのです。松下文法では「追跡泥棒」の如き詞を連詞的動詞といいます。連詞と言いますのは「詞」と「詞」とが連なっておるから連詞というのです。即ち「追跡」という動詞と、「泥棒」という名詞とが文法的関係(この場合は帰着語と客語との関係で客体関係という)で統合せられておる。次になぜに連詞的「動詞」というのかと申しますと、連詞は必ず従属と統率との関係で統合しておりまして、必ず一方が代表部(統率部)で、他方が従属部となります。「追跡泥棒」で言えば、「追跡」が代表部となります。要しますに「追跡泥棒」は事物を表すのでなく、事件を表しておるのですから、概念の代表部は帰着語である「追跡」になるのです。追跡の対象が何であれ、とにかくこの連詞は追跡という事件を表しておるのです。依って連詞的動詞とはいうのです。この連詞的動詞をそのまま一つの事物と看做して他の帰着語に対して客語とすることもできる。たとえば「好追跡泥棒(泥棒を追跡するを好む)」の如きであります(この場合の「追跡泥棒」は動詞性名詞と言いまして名詞化しております)。これまた出来た結果として「好」を代表部とする一つの連詞的動詞でありまして、これを連体格的に運用して名詞の上に冠せば「好追跡泥棒(之)警察官(泥棒を追跡するを好む(の)警察官)」となる。連体関係の連詞は被連体語、今の例で言えば「警察官」(名詞)が代表部となりますから、「好追跡泥棒(之)警察官」を松下文法では連詞的名詞というわけです。連詞的名詞も要するに名詞でありますから、帰着語に対して客語になれる、仮に「好追跡泥棒(之)警察官」を「X」とおいて、「悪X(Xを悪(にく)む)」とする。「X」を元に戻せば「悪好追跡泥棒(之)警察官」となる。即ち「泥棒を追跡するを好む警察官を悪(にく)む」となるのであります。複雑な句に見えますが、簡略化して示せば「悪+警察官」であります。「警察官」にいろいろな修飾語がついておるだけで其れを取ってしまえばなんと言うことは無い。敢えて連詞の中身を複雑にしましたが、其の複雑なものも分析してしまえば、上述の如き道理であるわけであります。この道理が分ってしまえば、漢文がよく見えるようになってくると思う。

また某ブログでは漢文と英文とを比較して所謂「助動詞」の説明をしておるのでありますが、文の成分としての詞の概念を明確にしない為に、漢文の「可」の如き詞を英語の助動詞(auxiliary verb)と同じであると謂ったそのすぐ後に、これを日本語の助動詞に比すと言うことを何の躊躇も無く致してしまうのだろうと思う。英語の助動詞は文字通り「verb」であります。助的動詞であります。今で言う補助動詞です。其れに対して日本語の助動詞は動詞ではないから助的動詞とは謂えない。また動詞を助けるばかりでなく、「(我は)太郎なり」の如く名詞を助けることもあるのですから、動詞を助けるというわけでもない。要しますに日本語の所謂助動詞は動詞的性質はあるが、詞ではなく辞(詞の材料)であります。其れに対して漢文の「可」も英文の「can」も皆詞であります。次元が異なるのです。英独語に謂う助動詞と国文法に謂う助動詞とは文法的に全く異なるものであることを意識していただきたい。「可」は一字でも文として成立しますが、日本語の「べし」は其れのみにては決して文を成さないのであります。こういう簡単な現象を無視しないことであります。

「可」を読み下して「べし」とする慣習ではありますが、直訳的には英語の助動詞と同じなんだと自身に言い聞かせることです。たとえば「是可以楽而忘死矣」は普通「是れ以って楽しんで死を忘るべし」と訓まれますが、「可」を詞として直訳すれば、「是れ以って楽しんで死を忘るるに可なり」とでもすればよい。こうすれば「可」の依拠性動詞なる性能が大体日本語の依拠性動詞として訳されておるわけでありますから、直訳に近い。文法的意義と解釈的意義とを混同しないことです。如何なる解釈的意義も其の根本は文法的意義にあるのでありますから、我々は本を尋ねるべきであり、末に恋々たるには及ばんのです。

 

二、自身の説明に於ける矛盾

某ブログに曰く、

「修飾語は被修飾語の前に来る」

 

「名詞を修飾するものは名詞の前だけど、動詞を修飾するものも動詞の前。たとえば英語ならcome from Japan(日本から来る)と動詞comeの後ろに前置詞句from Japanがくるけど、漢文の場合は「自倭国来」と動詞「来る」の前に「自倭国(倭国より)」が入る。」

この原理にどこまでも従うものならば恕すべきに庶からんも、其の直ぐ後に、

「〈置き字〉で一番良く出てくる「於」は前置詞なんだけど、あまりにもいろんな使われ方をするんで、いっそ文字自体は読まないことにして、送り仮名を取り替えることで処理したんだ」

 

「「於」は前置詞だけで5つくらい意味・機能がある。英語で言うとinとかformとかtoとか、比較のthanとか受け身のbyとかね。」

とありまして、「自」も「於」も氏の説明に依れば前置詞と看做しておるようであります。それはよい。実際、「自倭国来」の如く漢文に於いては修飾語が必ず被修飾語の前に来る(倒置は除く)。しかし、「王委政於尹氏(王、政を尹氏に委す)」の如きはどうするか。「於」は前置詞ではないと言えば已む、然るに苟も前置詞と認めたからにはこれに対して説明を施さなければ、「修飾語は被修飾語の前に来る」という最初の説が成り立たなくなる。そもそも「自」に於いてすら「歩自雪堂(雪堂より歩す)」(後赤壁賦)の如き例は幾らもある。これらの「自」や「於」を皆前置詞と言うのみにて、其の實、動詞の後ろに来る場合を無視するのでは漢文学徒の悩みは救われまい。

松下文法に則れば、これら(歩自雪堂や王委政於尹氏)の「自」や「於」を前置詞性動詞と謂う。要しますに動詞であるというのです。実質的意義は他詞に依り補充するも、其れ自身に叙述性があると言い切っておるのです。これこそ真摯な学者の言葉でありましょう。此くの如き「自」や「於」が形式的意義をのみ持つ動詞であるとすればこそ、某氏の説にもある通り「修飾語は被修飾語の前に来る」という大前提が担保せられ、漢文の詞の排列が英文の如き乱雑なものでないことが理論的にも明らかにせられるのであります。

今や時の権力者に親しむべき友の居らないことは常識の如く思われておりますが、是れ固より下の者が上を敬うことの禮なるのみを知り、上の者が下を敬うことの義にして最重要なることを知らぬためであります。上の者が徳を友とせんと思わば、必ず友を得るものであります。後世の人君に友が居らぬのは、賢を尊ぶことを知らぬためであり、賢を尊ぶことを知らぬものは、問い諮るべき益友無き以上、治世を望まんと欲するとも、出来ぬものであります。

天下有達尊三爵尊於朝廷齒尊於鄉黨尊輔世長民莫德為尊古之道也故有忘王公之貴而友匹夫之賎若堯之於舜晋平公之於亥唐是也及乎後世道徳下衰唯知以下敬上之為禮而不知以上敬下之為義最重也故古之賢君必有友友其徳也後世人君無友不知尊賢也雖欲望治而可得乎 (伊藤仁斎・孟子古義)

  • 漢文法

『莫德為尊』の文法

私は以前にも此くの如き文法の句を「客体関係内にある提示の可否」など何とか言って理屈を附けようと試みたものでありますが、果たして其れが理論的に可なるものかいまひとつ確信に至らぬのでありますが、とにかく実際にそういう語法はある。ただそれだけであります。もし「徳」(本名詞)が「是」や「之」などの代名詞または形式名詞であるのならば、話は単純であります。即ち「荒政之施、莫此為大」(夢溪筆談)などの場合と同じであります。本来「莫為此大」とあるべき様の「此」が否定語あるために帰着語の上に出たのみです(此くの如き条件が揃ったときになぜ特殊な配置になるかの所以は七八七項参照)。「為此大」の「此」は「為」の依拠性に対する客語です。「大於此」とするも同じ。「此」の依拠格的なるを示すに「為」の客語にするか、「於」の客語にするかの違いであります。解釈として比較を表すと看做す分には構わないにせよ、文法上は比較を表すに依拠性を以ってしておるのでありますから、余程注意が必要であります。

また石川鴻斎氏の『続文法詳論(下巻、十八項)』には、「莫此為甚」、「莫大於此」、「茲焉莫甚」の如き例を雑格として挙げておられますが、最初のは上述しましたように帰着語「為」が否定語を上に戴くために客語「此」(代名詞)が帰着語の上に出たものであります。次のは文法的に言うほどのことは何も無い。直訳的に読めば「大なること此に於いてするもの莫し」とでもなります。この「大」は比較態(英語で言えば比較級を表す-erが附いておる状態)です。「此」という対象に対して「大」という概念が考えられておるのです。「於此」は「焉」でもよい。最後の「茲焉莫甚」は客体の提示です。本来「莫甚於茲」とあるべき「茲」が上に提示されたのです。「焉」は「是」「之」と同様上語を再示する名詞です。比較の対象を上に出す例としては「我伐用張、于湯有光」(書経・泰誓中)の如きもありますが、これは提示ではなく平説の修用語であります。

因みにこの「莫德為尊」は孟子原文では「輔世長民莫如德(世を輔け民に長たる、徳に如くもの莫し)」となっております。

『堯之於舜、晋平公之於亥唐』の文法

これは「漢文法鉄則」にある形です。直訳的に読み下せば、「堯の舜に於いてすること、晋の平公の亥唐に於いてすること」となります。「於」が前置詞性動詞の名詞化したもので、複雑変態詞の一つであります。要しますに「堯之於舜晋平公之於亥唐」全体が一つの名詞でありますから、これを仮に「X」とおけば、「若X(Xの若(ごと)し)」の構造に過ぎないのです。

其徳也』の文法

当サイトではこの類、すなわち名詞性動詞の他動性的用法の講述をしばしばしておりますから、読者の皆様も理論はさておき実際上こういうものに何となくであるにもせよ、慣れてこられたと思う。私自身がこういうものを読みますときには、一致性の考え方に総括しておりまして、頭の中では「其の徳」と「友(的状態)」との一致として納得しております。一般に読み下すには「其の徳を友にす」「其の徳を友とす」などとします。「輔世」「匹夫之賎」も皆同じです。ただ「長」は解釈上自動性でありますから、「民を長とす」ではなく、「民に長たり(直訳的に訓めば、民に長的状態とあり)」の如く読み下すと云う差はあります。いづれにしましても皆悉く一致の概念の下に扱いうることは同じです。即ち、其の徳が友であり、匹夫の賎しきが友であり、(ある主体が民に)長たるわけであります。


【参考:写し方と返り点の附し方の例】

孟子古義例

明治昭和の東洋学者、井上秀天氏曰く、

(作麼生免得此過、具透關眼者(、試舉看))この二句を、古来「作麼生かこの過ちを免れ得ん。透關の眼を具するものは、(試みに挙す看よ)」と云ふ風に、下の句に続けて訓読して居るが、私の見解に依れば、この二句は「如何にすれば、この過ちを免得する底の具透關眼の者たり得るか」の意であるから、「具透關眼者」は下句に続けずに、上の「作麼生」に掛けて見るべきである (『碧巖錄講話』六九七項)

と。「作麼生」は「如何」に同じ。「透關眼」は「活眼」に同じ。「此過」とは説法は説くことも聴くことも出来得べきものでないのに、依然として説法し、またそれを聴いておること。

従来、この句を「どうしたらば、この過ちを免れ得るであろうか。活眼を具するものは試みに挙す看よ」と解釈した為に、「作麼生免得此過」を一つの句(sentence)とし、「具透關眼者」を下の「試舉看」に掛けて読み下したわけです。其れに対して井上氏は「どうしたら、この過ちを免れ得て、活眼を具する者たり得ん」、「どうしたら、この過ちを免れ得る活眼を具する者たり得ん」と解釈したが為に、「作麼生免得此過、具透關眼者」の全体を以って句(sentence)とはするのです。此くの如き解釈があって後、「作麼生(そもさん)か、この過ちを免れ得て、透關の眼を具する者ならん」、「作麼生か、この過ちを免れ得るの具透關眼なる者ならん」などと読み下すことにはなるのです。読み下して後、解釈があるのではないということの一例であります。

無論、解釈が文法に違反してはならないのは言うまでもありません。その意味において、我々は解釈が漢文法に背いておらないかどうかを自ら点検できるだけの学力を必要とするのです。

有其善、喪厥善、矜其能、喪厥功 (書経・說命中)

「其の善を恃みとすれば、為に人から善有りとせられず、其の能を以って威張れば、為に却って人から有能とはせられない」といったような意味であります。其れは漢文自体からも分りましょうが、註を見ればさらによく分かる、

人生尚謙讓而憎自取、自有其善、則人不以為善、故實善而喪其善、自誇其能、則人不以為能、故實能而喪其能、由其自取、故人不與之 (尚書正義)

問題はこの「有其善」をどう読み下すかであります。塚本氏の漢文叢書では「其の善を有すれば」と訓んであります。しかし、意味はそうではない。意味は、「自らを以って善を有すると為したらば(自以為有其善)」、であります。これを理論的に説明しますと、「有」が臨時に一致性(生産性)を帯びており、且つ既に非生産態化しておるわけであります(四三六項)。すなわち「有」は「有り」ではなく、「有りと」の意味であります。「有りと」と「す」との関係は、山田博士の所謂「賓格」と「形式用言」との関係に同じであります(山田孝雄『日本文法学概論』六九八項)。「夫色智而有能者、小人也」(孔子家語)の「有能者」も同様の用法であります。また「有」が臨時に帯びた生産性動詞に随伴して生じる他動的帰着性に対する客体(*)、簡単に申せば「~を~とす」の「~を」に当たる部分でありますが、其れは自己を指すことは明らかでありますから非帰着化せられておるわけであります。すなわち「自分で自分を善有りとす」るわけです。以上に依りまして「有其善」を、「其の善を有りとすれば」の如く読み下したいと思います。

(*)山田孝雄『日本文法学概論』(七三九項)の語を借りれば、

動詞「す」が形式用言として賓格を伴ふとき、又補格を伴ひて相合体して一の用言の如き意と用とをなせるが、其れ全体として、補格を要求することあり。たとへば、

 

「億兆心を一にして世々其の美をなす」

 

の如きこれなり。これらは其の「す」といふ動詞のみなるときにはかくの如き補格を要しうるものにあらぬことはそれらの捕格より直ちに「す」につづけては意味をなさぬにて明らかなり。即ちこれらは「一にす」といふ語全体の意よりして補格を要求する性質を生ずるに至れるものなりとす。

とあり。「賓格」といいますのは実質用言から陳述の作用を除いたものと考えてください。「一にす」の「一に」の部分であります。之を松下文法では一致格的客語といいます。「す」は形式用言にして、松下文法に所謂帰着形式動詞(一致性動詞、または主客語を受ける助動詞(改撰二九五項))であります。成分としては帰着語です。すなわち「一に」と「す」との関係は之を客体関係というのです。漢文にてはこの統覚を為す所以の「す」の意義を一致格的客語の内部に含ませることができますので、「心を一にす」を漢訳して「一心」とはするのです。「一」自体が属性と陳述とを兼ね有し得るのです。「心」は山田博士の言う補格であります。松下博士の所謂他動性の客語です。「心」と「一(的状態)」との一致を表すので一致性というのです。

「白し」は言語の単位として一つであるにせよ、思想上は二つであります。一つは属性観念に、いまひとつは陳述の作用であります。それを我が国語にては一つで表しうるわけでありますが、これを言語上も二つの単位に分解せんとすれば、「白くあり」とでもします。要しますに、属性の観念と陳述の作用とは分解せずして表すこともできれば、分解して表すこともできるのであります(山田孝雄『日本文法学概論』三二項)。これが人間の言語一般に言えるのならば、漢文にて「一心」を「心を一にす」と為したところが、まったく疑念の生ずる処にあらざること明らかでありましょう。松下博士は此くの如き運用を変態動詞として分類しております。我々はこれを根拠に先の「有其善」を「其の善を有りとす」とは読み下したのであります。


【参考】

品詞の転化(一致性動詞に対する客語の分類)」(旧ブログ)

白文(十文字):

齊人無以仁義與王言者 (孟子・公孫丑下)

漢文法:

孟子連詞分解

「齊人無以仁義與王言者」は結局「斉人に乙無し」と言うに同じです。「無」は名詞の客語を取ります。乙の中身が少しく複雑に感ぜられるかも知れませんが、要するに「者」です。名詞です。「者」だけでは内包無くして唯外延あるのみが如きものでありますから、「以仁義與王言」を以って其の空虚を補充しておるわけであります。

訓読:

斉人に仁義を以って王と言ふ者無し

根本通明先生の詩経講義に、

惠于宗公、神罔時怨、神罔時恫 (詩経・大雅)

この「時」を「この」と訓んである。「この」すなわち副体詞として訓むことが間違いとは言えないにせよ、其の場合は山田孝雄博士の語を借りれば「この」は「怨」、「恫」の決素(要するに陳述)ではなく属性観念に懸かっておることになります。松下博士は代副体詞の主体的連体語の用法を説いておりませんから、命名に難きも強いてすれば「代副体詞の主体的連体語」とでもなりましょうか(もしくは既に「怨」「恫」が名詞化しており、之に対する修飾的連体語とするも可)。いづれにしましても動詞の概念の実質に懸かっておるものとして解することになります。しかし、此くの如き「時」は代副詞として「これ」と訓まれることのほうが一般的でありましょうか。

註には、

文王為政、諮於大臣、順而行之、故能當於神明、神明無是怨恚、其所行者、無是痛傷、其將無有凶禍 (毛詩正義)

とあります。「大凡讀書、須是熟讀」の「是」と同じであります。代副詞として訓むにしましても、その意味は『詩経今註今譯』にあります如く「同是、因而(是に同じ、因って而してなり)」の意と考えるに可なりましょう。実際に書き換えてみますれば、

神罔因而怨、神罔因而恫

となります。「神罔時怨」を訓読して「神時(こ)れ怨罔(な)し」とすると、「時」が「罔」に懸かっておるように聞こえますが、そうではなく、「怨」に懸かっておるのです。それは原文を見れば分る。「患禍無由入」などの「由」が「入」に懸かっておるのに同じであります。分り難ければ「神罔所以怨」とし、「神、(ソレヲ)以って怨む所(のソレ)罔し」と考えればよい。

無論、「時」にも「是」にも代名詞としての用法がありますから、否定的意義を表す詞を戴く連詞的動詞の客語が帰着語の上に出たものとして、すなわち「莫之能守」の如きものとして考えるも可であります。其の場合には「時」を「これを」と訓むことになります。


 

解釈に於ける相違

「時」を「この」(副体詞)と訓ずる場合:天神様に、其の怨みいたむのあること無し。

「時」を「これ」(副詞)と訓ずる場合:天神様も、怨みいたむに由無し。

「時」を「これを」(名詞)と訓ずる場合:天神様も之を怨みいたむことは無い。

口語に訳せば、「天神様も怨みいたむことは無い」くらいなものでありまして、「時」の文法的性能の微妙な差異は反映させ難いものであります。

ちょっと長いですが、文法上それほど難解なところもありませんので、自分なりに句読を切りつつ書き写してみてください。

莊暴見孟子曰暴見於王王語暴以好樂暴未有以對也曰好樂何如孟子曰王之好樂甚則齊國其庶幾乎他日見於王曰王嘗語莊子以好樂有諸王變乎色曰寡人非能好先王之樂也直好世俗之樂耳曰王之好樂甚則齊其庶幾乎今之樂由古之樂也曰可得聞與曰獨樂樂與人樂樂孰樂曰不若與人曰與少樂樂與衆樂樂孰樂曰不若與衆臣請為王言樂今王鼓樂於此百姓聞王鐘鼓之聲管籥之音舉疾首蹙頞而相告曰吾王之好鼓樂夫何使我至於此極也父子不相見兄弟妻子離散今王田獵於此百姓聞王車馬之音見羽旄之美舉疾首蹙頞而相告曰吾王之好田獵夫何使我至於此極也父子不相見兄弟妻子離散此無他不與民同樂也今王鼓樂於此百姓聞王鐘鼓之聲管籥之音舉欣欣然有喜色而相告曰吾王庶幾無疾病與何以能鼓樂也今王田獵於此百姓聞王車馬之音見羽旄之美舉欣欣然有喜色而相告曰吾王庶幾無疾病與何以能田獵也此無他與民同樂也今王與百姓同樂則王矣 (孟子・梁惠王下)

(註):莊暴、齊臣也

漢文法:

  • 動詞+前置詞(以、於、于、為、與等)の文法

この「動詞+前置詞」に当てはまる構造の句を上記より抜き出せば、

  1. 見於王
  2. 語暴以好樂
  3. (他日)見於王
  4. 語莊子以好樂
  5. 變乎色
  6. 鼓樂於此
  7. 至於此極
  8. 田獵於此

の如きであります。いづれの前置詞も理論上は単純形式動詞化しておるものでありますから、「動詞+前置詞」の全体で一つの連詞的動詞になっておると考えてください。要するにこれらを否定に書き換える場合は、「見於王」、「語暴以好樂」などとするのです(「語暴以好樂」を否定にして「語暴以好樂」とする場合については後述)。5.「變乎色」の「乎」は理論上、前置詞性の動詞ではなく本性の単純形式動詞でありますが、ここでの文法的性能に於いては差がありませんので同様に扱います。

  • 「不與民同樂也」の文法

これ自体は何も変わったところもありません。すなわち「與民同樂」全体が一つの連詞的動詞でありまして、仮にこれをXとでもすれば「不+X」となり、所謂句形集にある「不+動詞」の構造であることが明瞭となります。「民と楽を同じくする、ということはない」というのです。試みにこの句を書き換えて、

  1. 與民不同樂
  2. 同樂不與民
  3. 同樂與民

とした場合の区別にも注意しましょう。文法的に申せば1.は属性的提示、2.は実質的提示、3.は提示ではなく平説で「同樂」と「與民」との連詞関係が実質関係であるというのみです。属性の提示とは、平説にある修用語を提示したもので、実質の提示とは「動きだにえせず」などに於ける「動きだに」の「せ」に対する関係を指して言います。3.は先に見た「動詞+前置詞」の関係に同じです。それぞれ漢文の例を挙げれば以下の如きであります。

  1. 喪禮、與其哀不足而禮有餘也不若禮不足而哀有餘也 (禮記・檀弓)
  2. 域民不以封疆之界固國不以山溪之險威天下不以兵革之利 (孟子・公孫丑下)
  3. 聽不失一二者、不可亂以言、計不失本末者、不可紛以辭 (史記・淮陰侯列傳)

上記の「同樂民(楽を同ふするに民と与にす)」も「亂言(乱すに言を以ってす)」も「紛辭(紛すに辞を以ってす)」も、皆「動詞+前置詞(厳密には前置詞性単純形式動詞)」の構造であることに於いて全く同じです。このような構造を松下文法にては実質関係(単純なる補充語(実質語)を以って形式的空虚を補充する関係)というのです。

  • 「齊國其庶幾乎」の「庶幾」

「庶幾」は松下文法に所謂「帰着形式動詞」でありますから、本来客語を取るべきものであります。然るに茲にて其れが無いのは言わなくとも分るために非帰着化しておるというわけです。

回也其庶乎、屢空 (論語・先進)

これなどと同じであります。上記論語の註には「回庶幾聖道」や「其近道」などとあり、客語として「聖道」や「道」が省略せられておることが分ります。因みに孟子の註には「齊國庶幾其治安乎」とあります。

  • 「今王與百姓同樂則矣」の「(王たり)」について

名詞性動詞(変態動詞)です。観念の比較的客観化せられて後概念たりうるまでの過程に於いてあらゆる関係が一点に統覚せらるるに依り、出来た結果として名詞と雖も、其の内容(内包)には其の以って事物となるところの生産作用をさえも含みおるのであります。是れ運用なるものの由って来るところであります。我々の注意が事物の生産作用の方に深くなれば、其れが名詞性動詞であります(四三一項)。すなわち王という事物があって為に直ちに王という概念に至るのではなくして、ただ以って王たるところばかりがまづあり、然る後にそれらが然るべき外延の元、論理学者大西祝氏の言を借りれば、一物の性質が其のものの一なるところに合せられると考えるのです。孔子の言に「王」字を説いて「三を一貫するを王と為す」とありますが、これが王の内包であります。「三」は天地人。即ち「王たり」とは王者の徳を以って天地人を貫き、皆其の王者の許に帰往する貌を言うのです。

周敦頤の『太極圖說』に以下の如くありますが、これなども言語観、概念の所以を表すものと見れば亦発明するところ無しとも思われませんので、敢えて載せておきます。

自無極而為太極、太極動而生陽、動極而靜、靜而生陰、靜極復動、一動一靜、互為其根 (太極圖說)

無極や太極とは、直感と考えればよい。陽は用であり、陰は体であります。陰また極まれば陽となり用を生ずると考えるのです。「靜極復動」などは、能く名詞性動詞に髣髴たるものと思う。ヴントは文を解釈して「思想の初期の心理的形式であって、或る意味に於いては、単語より一層前行した形式といってよい。(中略)単語は、文によってのみ表される初期の統一的思想の分解から、発生するものだからである」と述べられておる。「雨」と「降る」という単語が出来てから、「雨が降る」という文ができるのではなく、科学の証明するところは其の反対であるというのです。我々は「雨が降りつつある」光景を見て其の表象を得て、其の思想を漢文の如く分解せずそのまま「雨」という字に表すことも出来ますし、また日本語の如く「雨が降る」と主語叙述語の関係に分解して表すことも出来るわけであります。一旦混沌たる思想が分解せられて、「降る」なる概念に凝結すれば、何でも主語を変えれば「雪が降る」、「ひょうが降る」、「矢が降る」などと言える訳です。結果として凝結したものは再び己自身が原因となりまた動ずるのです(一動一靜、互為其根)。言語の極まりなき所以であります。

イェルサレム教授はゲルベルの語を引き、文法上より論じて曰く、「判断の形式は、語根が主格と賓格とに分るるによりて完成す。斯くして始めて主格は、吾人の「自我」の比論により独立にして且つ他に働きを及ぼすものとして認定せられ全過程はここに於いて宇宙の言語より人間の言語に翻訳せらる」 (元良勇次郎『心理学概論』七六一項)

【参考】

「獨樂樂與人樂樂孰樂曰不若與人曰與少樂樂與衆樂樂孰樂」の部分は対になっておることが分れば以下の如く構造を見抜けるはずです。

孟子梁1

白文(六文字):

魚懸由於甘餌 (晉書)

漢文法:

「於」は西洋文典に所謂動詞の格支配に同じであります。上句の例で申せば、動詞である「由」が「我は次に依拠的なる格、すなわち「~に」格なる名詞を取るぞ」ということを表す記号であります。「甘餌」なる名詞の格が「甘餌ヲ」でもなく、「甘餌ト」でもなく、「甘餌ニ」であることを示すのです。動詞の取るべき名詞の格が明瞭であれば、「於」は無くても構いません。上句の「於」も削るに可であります。またここの「於」は松下文法にては前置詞ではなく、前置詞性の単純形式動詞に分類されるものであることにも注意してください。

因みに松下文法にて「可」が依拠性の帰着形式動詞に分類されておりますのは、「知不可驟得」(前赤壁賦)の如き例があるためです。独逸文典流に云えば、「可」は第三格支配の動詞とでも言うことになりましょう。

次に上句の構文を確認しておきます。

魚懸 ⇔ 由於甘餌

「魚懸」自体が主語と叙述語との関係より成る連詞でありますが、名詞化しておるのです。「魚が懸かる」ではなく「魚の懸かるコト」の意です。「魚懸」が判定対象たる主題(修用語)で、「由於甘餌」が其れに対する判定概念(被修用語)です。

訓読:

魚(うお)の懸かるは、甘餌(かんじ)に由る

古歌にも「ちりぬれば、後はあくたになる花を、思ひしらずもまどふてふかな」(古今和歌集)などとありますが、我々もまた花に惑う蝶か。

白文(十九文字):

子路曰有民人焉有社稷焉必讀書然後學 (論語先進)

漢文法:

「何」は不定副詞(二八〇項)です。不定なる実質的意義を以って下詞を修飾しておるのみです。不定なる実質的意義というものが分り難ければ、「何」を「以何故(何の故を以って)」とでも置き換えればよい。一方は疑問の意を表す単詞的副詞にして、他方は連詞的副詞であるという差はあるにせよ、いづれも疑問の意を以って下の詞を修飾する修用語である点に於いて全く同じです。

「為」は「と為す」と訓じて一致を表す場合と、「す」と訓じて単に或る動作をするという形式的意義だけを表す場合との二種あります。其の区別は文脈に依ります。ここの「為」をもし「す」の意味に解しますと、「どうして必ずしも読書して後、学ぶことしようぞ」の如き意となります。またもし一致を表すとすれば、「どうして必ずしも読書して後に(其の場合を)学んだ(場合)為すか」の如き意になります。「を」と「と」との違いに注意してください。

因みに言う、渋沢翁はこの一節につき子路の言葉を可とし、「机上の読書のみを以って学問と思ふのは甚だ不可事である」と述べておられる。ここからも知れますようにこの「為」は一致的用法に解すことが普通のようであります。しかし文法的には「然る後、学ぶを為さん」と訓じたところが間違いとは云えないわけであります。

訓読:

子路曰く、民人有り、社稷有り、何ぞ必ずしも書を讀みて、然して後、學びたりと為さん


「為」を「す」の意として解した場合の「どうして必ずしも読書して後、学ぶことをしようぞ」に就きまして、ちょっとゲーテの言を思い出しましたので付記しておきます。ゲーテはかの哲学なり科学なりの学術書などを何らの予備知識も有せずに恰も小説を読むが如くに直ちに読み始める輩を評して斯く云う、

これらのおめでたい先生たちは、読書することを学ぶために人が如何許りの労力と時間とを費やしたかと言うことを知らないのだ。私は其の為に八十年を要したが今なほ、自分は標的に達した、といふ事は出来ない

我々普通に書物を読んで勉強すると考えがちでありますが、この言に鑑みれば事実は其の反対にして、却って勉強して後書物を読むと謂うべきでありましょうか。卑近な喩を引けば、祖父母の膝下にて東洋の歴史を多少なりとも聞き馴染んでおればこそ、嘗ての少年輩は十八史略なり日本外史なりを独力で読書し得たにせよ、そのような膝下の耳学問が家庭にて廃れてしまえば、読み下し文と雖も容易に読まれぬものでありましょう。すなわち学問の進む次第は、未知より已知にあるに非ずして、只だ粗なる已知より精なる已知にのみ向かって進むものと言うを可とするか。

陸象山曰く、

大抵讀書、詁訓既通之後、但平心讀之、不必強加揣量、則無非浸灌培益鞭策磨勵之功、惑有未通曉處、姑缺之無害、且以其明白昭晰者日加涵泳、則自然日充日明、後日本源深厚、則向來未曉者將亦有渙然冰釋者矣 (陸九淵集)

分らないものを無理に分ろうとするのでなく、分るもの(粗なる已知)を更によく分かるよう(精なる已知)になれというのです。

白文(十一文字):

小人之使為國家菑害並至 (大學章句)

漢文法:

「小人之使」の四字の語順が奇妙に感ぜられるかもしれませんが、「小人」は「使」(動詞)に対して客語です。動詞の上に飛び出しておるのは強調のためとでも考えてください。「之」(形式名詞)は「小人」を形式的に再示しておるのみです。「小人をさあ、それをさあ使って国家を治めさせれば災禍が並び至るぞ」というのです。「非夫人之為慟」(論語先進)の「夫人」が「為」の上に飛び出しておるのに同じです。松下文法に所謂間接客体の提示(七一三項)です。本来の語順に直せば「使小人為國家(小人をして国家を為(おさ)めしむ)」となります。「使」は使動を表す修飾形式動詞で常に従属的立場にあります。

訓読:

小人をしてこれ国家を為めしむれば、菑害(さいがい)並び至る

訓読の中には「これ」を訓まないものもありますが、其れが無ければ訓読上は「小人」の提示なることが現れないことに注意してください。「これ」あるが為に他でもない小人なんぞに国家を治めさせれば、の如き気味が訓読にも現れるのです。原漢文は見ず、読み下したものだけを見る方はここに注意されたい。


 

国政は小人に任せられぬとは何の謂ぞ

『融堂四書管見』に曰く

大抵有國有家而務財用者必自小人始彼為善於其事是以世主甘心焉心計之巧算析秋毫善之之謂也不幸而使小人專國家之權元氣既傷本根既撥則災害並至雖有善者亦不能如之何矣

「いづれの国家にも財用の如きを務める者がおるが、それは必ず小人に於いて始まる、彼らはそういう事務を非常によくするため、主のほうでも勢い其の経理の才に誘われるが、一たび彼らに国家の運営を任せれば、元気はそこなわれ、如何なる人材があろうとも既にこれをどうすることも出来ないようになる」の如き意。これすなわち「国家は利を以って利と為さず、義を以って利と為せ(國不以利為利、以義為利)」の意であります。