返り点とは

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返り点とは、漢文そのものの語順を変えることなく日本流に誦読するために発明された記号のことです。白文を読むのに返り点の知識は必要ないのでありますが、物の順序として一応触れておくというまでです。漢文に慣れてしまえば、返り点のことなど何の困難もなく覚れるものではありますが、慣れる前に直ちに返り点から勉強を始めるとなると少しく難しく感ぜられるかもしれません。故に、もしよく分からんというところがあってもあまり深入りせずに進んでもらって構いません。

  • 句読訓点に対する根本的見解(塚本哲三氏引用)

よく世の中の人が「てんで返り点や送り仮名も附けられないで何で意味などが取れるものか、漢文の読解は返り点送り仮名が根本で、それが出来た上ではじめて意味も分かるのだ」といふ。然るに私は全然この言葉とは反対に「てんで原漢文の組み立ても分からず意味も分からぬものに何で返り点や送り仮名が附けられよう。漢文の読解は白文のまままづ其の組み立てを考へ意味を解するのが根本で、それが出来た上で、はじめて其の組み立てなり意味なりをなるべくよく現すやうに返り点や送り仮名を附けるべきである」といふ。ほんとに漢文を学び、ほんとに漢文を考へるのには、斯うするのが順当な手順であって、私のいふ事は矯激なことでも何でもないと信ずる。勿論訓読は永い永い習慣であり、且つ我々の祖先が独創した一つの大きな遺産で、その形に於いて端的にわが文学の一半を為しているのであるから、私は漢文に返り点や送り仮名を附けることを全廃して、坊主が経文を読む様にせよとまで極端に主張しはしない。ただ返り点や送り仮名を附ける前に、まづ漢文そのままの形で、頭から意味を考へぬいて、さてその意味がよく現れる様に返り点や送り仮名を附けたいといふのである。諸君がほんとによくこの意味を理解されたら、諸君がよくやるやうに、問題の全体に目を通しもせず、いきなり頭から返り点送り仮名を附けて掛かるといふやうな無茶なことは絶対になくなって、自然正しい答案が得られる事になると信ずる。 (『漢文学び方』二十二項)


 

 

返り点1

返り点2

返り点3

 

  • 返り点は掛り点なり

返り点4

返り点5

返り点を返り点として考える考え方を国文法的とすれば、掛り点として考える考え方は半国文半漢文法的と言えます。「不」などは漢文法に於いて英語の「not」と等しく副詞でありますから、下の語に掛かるという考え方は頗る漢文法に的中したものといえますが、「當」や「可」などは漢文法上は副詞ではなく、また修飾語として下に掛かっておるわけでもないので、何でも掛りとして考えるのはあまり精密とは言えませんが、初めのうちは斯くの如く大雑把に文字の掛りというものを捉え、学習が進むにつれて考え方を精密にしていけばいよいのです。

図中にある「使籍誠不以蓄妻子憂饑寒亂心有錢以濟醫藥」の例文の「使」という使動(使役)を表す字を掛りと看做せば、以下の図ように解すことになります。

返り点6

凡そ返られる字は、返る字のみならず、そこまでのすべての字を包摂して掛かっておると考えるのです。すなわち「使籍誠不以蓄妻子憂饑寒亂心有錢以濟醫」の例で申せば、「使」は返られる字で、「藥」は返る字でありますから、「使」の意義は「藥」の字のみならず、「籍誠不以蓄妻子憂饑寒亂心有錢以濟醫藥」の全体に掛かるわけです。

 

  • 練習問題

知識の確認をしておきましょう。

返り点7

読み下しのほうばかりを見て、自分のことを養ってくれる恩の如何は見るが、其の恩の多寡に依って報いることを手厚くしたり薄くしたりはしない、などと解さないように注意してください。養ってくれる恩の如何を視ることもなければ、それによって報い方を変えると言うことも無い、というのです。「視」も「厚薄」も両方打ち消されておるのです。それはよく漢文そのものを見れば分かることであります。もし「厚薄」のほうだけを打ち消して、「視」のほうは打ち消さないというならば、「視蓄養之恩何如、而不厚薄其報」とするのです。読み下しは上記に同じです。区別を附けて読み下すならば、「蓄養の恩の何如を見るも而も其の報を厚薄せず」とでもします。どう読もうが、原文を見れば「不」の位置に依り違いは一目瞭然であります。どうも初学者の方は訓読に依り漢文の意義を解釈しようとする嫌いがあるものでありますが、そうではなく漢文の意義は漢文そのものに在るのです。漢文そのものを以って解釈するのです。而して其の解釈に従って所謂文語調の訓読をするのです。学生の中には漢文は古文も出来なければならない、と考えておるものもあるかも知れないが、純粋に解釈をするという点のみにおいて云えば古文の知識は要らない。「使悪人殺商人」を「悪人をして商人を殺さしむ」と訓み下せば、如何にも「古文の助動詞」の知識が必要のように見えるにせよ、それは習慣上文語文法に従って訓読するからの話でありまして、「使」が客語である「悪人」を使動(使役)して、其の訳合いを以って商人を殺すのである、という解釈さえ立てば、そのまま「悪人に商人を殺させる」と訳したとて何ら問題は無いのです。漢文そのものをよく見て、まず大凡の解釈を立てることが先決です。

幕末明治に於ける漢学者島田篁村の御令息、島田鈞一氏曰く、

(西洋の)外国語は最初から文法が非常に必要であって、文法を知らなければ、文章を理解することは殆どできない。外国語は文章を一目すれば、縦令その文章の意味は十分理解できなくても、名詞は冠詞があり、動詞には変化があり、これ等の主要の言葉が分かっているから、その他形容詞副詞などの品詞は、文章上の形式で大凡察しられる。これ等の文法を基礎としてその意味を尋ぬれば、文章の解釈の上に、非常な助けとなるであらう。

 

然るに漢文の文法に就いて言ふと、名詞には、特別に名詞といふことを知る冠詞も無く、固有名詞を特別に大文字で書くといふ訳でもない。動詞には変化もなく、文章の大体が、全く理解されないで外国語のように、文章の形式だけで、すぐ分かることは難しい。漢文は大体の理解力を持っていて、問題に接触した場合、ほぼ理解しうる知識があって、中に難解の字句があった時に、初めて文法を応用し、解剖的に分解して、ここに正確に文章を理解することが出来るのである。外国語は文法が主で、解釈は従であるが、漢文は理解力が主で、文法は従である。漢文は、問題に対しておぼろげに意味が分かるだけの理解力が無ければ、文法を利用することは難しい。

「漢文は理解力が主で、文法は従である」という言葉、まさに銘刻すべきであります。

  • 返り点の附し方に差あり

返り点8

 

  • 注意点

返り点9

「不至太惜」と「不太惜」との違いに注意してください。前者は「太だ惜しむに至る、ということはない」のです。後者は「太だ惜しむ、ということはない」の意で、「太だしくは惜しまず」と訓む慣わしです。しかし、それは訓読の問題でありまして、どう読もうが意義は語順により決定されておるのであり、訓読により決定されておるのではありません。


  • 漢文は白文を読むべし

江戸の漢学者、荻生徂徠は出来るだけ返り点や送り仮名の附いた漢文を避けるべきであることを盲人の喩を引いて述べて曰く、

一通り訓点附きの漢文が読めるようになったのならば、それら訓点の附いたものは以後目に触れることのないように処分し、訓点のない白文を読むべきである。無点の史書類を何遍か読んでおれば、いづれの書と雖も読まれぬものは無くなる。訓点附きの漢文を読むことは、盲人が手を引いてくれる同伴者とともに道路を行くようなもので、いつまで経っても道を覚えぬ。然るに同伴者を速やかに絶つものはよく自ら歩行す。これは才能の違いではない。読書も亦これに同じである。独力で書を読まんと欲するものは速やかに訓点附きの漢文を去るべきである。 (訳文筌蹄、筆者訳)

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