注釈書の見方

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注釈書の体裁

  • 『毛詩正義』の例

注釈書の体裁1

注釈書の体裁1

(*)薄赤色の四行目に「正義曰、碩大、釈詁文(正義曰く、「碩は大なり」は釈詁の文なり)」とありますが、試しに『爾雅注疏』の釈詁篇を見ますと、

京、、濯、訏者、秦晉之間凡人大謂之奘(秦晋の間、凡そ人の大なるをば、之を奘と謂ふ)、燕之北鄙、齊楚之郊或曰京、齊宋之間曰(斉宋の間には碩と曰ふ)、荊吳楊甌之郊曰濯、中齊西楚之間曰訏、此皆謂大(此れ皆大なるを謂ふ)、方俗之殊語也

とあります。正義は鄭箋が「碩」を「大」と注した所以を示しておるのです。

  • 『論語注疏』の例

注釈の体裁2

注釈の体裁2

上記注の如き、一句または数句全体を解釈する注釈の仕方を串講と謂います。例えば、王粛(上図一行目)が「学びて時に之を習ふ、亦た説ばしからずや(學而時習之、不亦說乎)」の二句全体を解釈して、「時とは、学者時を以って之を誦習するなり、誦習するに時を以ってし、学、業を廃すること無き、説懌と為す所以なり(時者、學者以時誦習之、誦習以時、學無廢業、所以為說懌)」とするのがそれです。ここでは「時」字を説明し、更に「説」を「説懌」とすることで語釈も兼ねております。

また余談でありますが、疏の四行目後半より五行目に掛けて、「君子の行ひ、一に非ず、此れ其の一行のみ、故に「亦」と云ふなり(君子之行非一、此其一行耳、故云亦也)」とあります。此れに由って観れば、疏に於いては正文の「亦」を本副詞でなく接続詞(寄生形式副詞)として解釈しておることが知れるのです。即ち、(他の行為もあろうが)学びて時に習うことも亦た悦ばしいことだというのです。一般的には本副詞と看做して、「学びて時に習うこと、それは悦ばしいことだ」の如く解します。要するに「も」の意味は無く、むしろ「は」の意であります(三一四項参照)。


【参考文献】

王力 『中国古典読法通論』(朋友書店)

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