思想と言語との関係

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英国の論理学者ハミルトン曰く、

砂地に墜道を開鑿するの事 業、言語と思想との間に行はるる関係に類する者有り、此の事業を起こすや、一尺、否殆ど一寸は一寸を開鑿する毎にアーチを石造して其の既に開鑿したる部分 を強固ならしむるの後、更に進みて他の部分を開鑿するにあらざるよりは成功する能はざるなり。今言語の心に於けるはアーチの墜道に於けると頗る相似たり。 甲に於いては言語を俟ちて而して後初めて事物を思考するの力あるにあらず、乙に於いては石造アーチのあるを俟ちて而して後初めて工夫に開鑿力あるにあら ず、然れども斯る補助手段なかりせば、事物思考の作用と開鑿業とは、其の発端点の外に尺寸をも進むる能はず。

(省略)

言語の歩みを進むるは畢竟思想の歩みを進むるに由ると雖も、若し言語の着々思想に伴ひ来るにあらざるよりは、思想は茲に停止して其の上の発達を看ること無しとす。

要 しますに、トンネルを掘って後周りを固めることは必要とは雖も、工夫がまづ掘らなければアーチだけあっても意味なきが如く、単に思想だけあっても其れに言 語が随伴するのでなくては、やはり思考を進められぬのであります。すなわち思考と言語とはやや思考が先んずるにもせよ、互いに手を取り合いながら進んでゆ くべきものであるとは言うのです。夫の米国の聾唖盲なる婦人ローラ・ブリッジマンに以下の如き話あり、

(指語及び 指読の教育を受け、且つ文字筆記の術を学んだ後)婦人、独座黙考するの際には、不断、指を彼方此方に動揺するを習慣とせり、是れ其の事物を思考するに当た り、指語を使用するなり、尤も此の指の動揺とても甚だ小にして且つ十分ならず、是以って指語を解する人と雖も、傍らより一見して婦人が如何なる事柄を念頭 に浮かべ居るやを悟る能はざれども、さりとて就きて之を問へば其の際念頭に浮かべたる事どもを話すべし、此の婦人は一旦、事物を表明する一種の符号即ち指 語の教育を受けたるよりして事物を思想するに当たり、動すれば之が思想を運転するの要具として指語を使用するを止むる能はざると看へたり云々

また論理学者ホェートリー、言語に特有な性質を述べて曰く、

禽 獣は言語の他の一用法を逞ふする能はず、即ち抽象作用を以って成れる総称語を思想の道具として使用する能はず、此の総称語を思想の道具として使用するこそ 言語の甚だ大切なる用法にして、推理作用の重畳連続して行はるることあるは特り言語の此の用法あるに由るものにして、是れぞ人類の特有にして絶へて禽獣に 無きところなり、されば唖者の如きは其の指語或は指読の手段により、一種の言語を教へらるる前に当たりては推理作用を連続して積み重ぬるの難きは、禽獣と相比して譲らず云々

結局我々には思想を進める妙なる力が先行的に在るとは雖も、これを活用するにはまた言語を俟たなければならないということであります(もしくは思想のみにては用あるばかりで体あること無きに似たりと謂うの勝れりと為さんか)。上記はいづれも西洋人の理屈を借りましたが、支那人の言を借りればやはり同様の趣旨のものがあると思う。

形者、氣之橐囊也、氣者、形之線索也、無形、則氣無所憑籍以生、無氣、則形無所鼓舞以為生、形須臾不可無氣、氣無形則萬古依然在宇宙間也 (呻吟語・天地)

「気」というのは思考であります。トンネルを掘る工夫の元気であります。しかしこれだけでは由って以って進むに可ならざるものでありますから、そこで「形」すなわち言語を要するのであります。「形」すなわち静にして凝結するところあるが為に運用することができるのです。もし気のみありて形なければ、すなわち工夫がただ掘るのみで全く固める作業を行わなかったならば、万古成るもの無しというわけであります(氣無形則萬古依然在宇宙間也)。

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