素読必読書(基礎学力を修得するための必読書)

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ご子弟の教育の参考までに以下の書を挙げたものでありまして、大人になってから漢文の勉強を始めるのに四書なり小学なりの暗誦から始めよというのではありません。しかし、一通り学習しておくことはやはり有益なことでありますから、論語や孟子などはどこを出されても読めるようにはしておくと、それが基礎学力となり後の勉強の進捗に与って力あるものとなりましょう。何も見ずにすらすらと諳んずることが出来るのならば、それに越したことはありませんが、必ずしも空で読める必要はないと思います。とにかく白文を見ながら読めるようにしておけばよいのです。孟子は約三万五千字でありますから、一日に百字づつ勉強されれば、だいたい一年で終わることになります。春秋左氏傳はおよそ二十万字でありますから、一日百字づつ勉強しても五年半ほどかかります。天資平均以上のご子弟ならば、一日三百字を以って誦するも可でありましょう。

素読

素読は、暗誦記憶せんが為にして、其の字義訓詁を知らしむる為にはあらず。(初学課業次第)

小学 四書 五経

句読の次第、斯くの如くなるべけれども、総て童蒙の記憶し易き四書より始めて、五経か小学に移るかた便なれば、必ずしも次第に拘わらず授くべし。

句読は多く貪るにあらず。唯覆読より力を得るものなれば、兎角習読して暗誦する程に至るべし。然らざれば五経終わるとも独看出来難きなり。春秋は授けざるも可なり。四経の唔咿ととなふ程なれば、春秋は自ら読まるるなり。或は左氏傳にて授くるもよし。 (『初学課業次第』)

安原富次氏曰く

古来漢土にても我国にても素読の教科書として編纂したる書なく、唯適宜に漢文の書を択びて之を教科書となしたりしが、大抵は孝経、四書、五経を以って素読の教科書として用いたりしなり。

(中略)

昔時の教育界と今日の教育界と其の面目を異にするものあるも必ずしも漢文素読の教授法を新定するに及ばじ。また適当の教科書を新撰するにも及ばじ。ただ従来の教科書を多少斟酌折衷すれば十分事足るべしと思ふ。其の故何となれば従来の孝経、大学、中庸、論語の如き固より素読の教科書として選定したるものにあらずと雖も、其の文章語句、簡単にして長からず。又使用の文字も平易にして難からず。故に初学之を読みて記憶し易し。実に不思議にも初学の教科書に適当しをれり。また孝経四書五経は漢文学中の根幹源泉にして、後世漢文の書は皆源を此れに発し、法を此れに取らざるは無く、文字理想すべて孝経四書五経の範囲を脱せず。故に四書五経の文字を習熟して悉く之を記憶しをれば此の外漢文の書は大抵自己の力にて読み得べし。

(中略)

然れども今日は普通的に修むべき学科極めて多く、昔時の教育界に於いて児童六七歳の頃より唯漢文学をのみ専修したるが如くなること能はず。されば四書五経の素読を授くるに相当の斟酌なかるべからず。

(中略)

従来素読を受くるには大抵孝経、大学、中庸、論語、孟子、詩経、書経、易経、春秋、禮記の素読を順々に受けしかど、今日にては悉く之を受くるに及ばず。まづ師に就いて孝経の素読を受くべし。次に大学中庸、次に論語孟子、次に詩経書経を受くべし。易経春秋禮記は一々師に就いて素読を受くるに及ばず。さて初学の士、右の順序に由りて素読を受け悉く之を習熟するときはその他の書は師に就いて素読を受けずとも大抵は自己の力にて読み得べし。かくて右の素読を受け終わりしとき、自ら日本外史、十八史略、蒙求を読むべし。 (『漢文講読法』)

明治昭和の漢学者、久保天随博士は、漢学研究上最初に読むべき書は『日本外史』であることを述べて曰く、

この書は、すでに本邦人の手に成り、その内容は本邦中古以後の史実に係り、其の上文章は二三の誤謬はあるが、殆ど完全なる正格の漢文で、本家本元の支那人さへ、これを愛読し既に数種の翻刻があった位、漢文の何物たるかを覗くには第一の捷径であって苟しくも尋常中学初級程度の学力ある者が其の一二冊を人からでも習へば、あとは大抵滞りなく自分で読め、意義は先刻すでに分り切っておるから何の造作もない。かくて後、和刻の訓点附きの漢籍なれば大概一通りは読み得られることと考へる。

久保博士のおっしゃる「二三の誤謬」といいますのが一体何であるのかは、私にはわかりませんが、ちょっと訓読上おかしく感ぜられるところもあるにはある、たとえば、

嚮使帝以其所任新田氏者以任於公乎 (日本外史)

これは一般には「嚮(さき)に帝をして其の新田氏に任ぜし所の者を以って、以って公に任ぜしめんか」の如く訓まれますが、そうしますとどうも「以って、以って」と重なるところがちょっと落ち着かない。後者の「以」が余分なようにも思われる。なにしろ既に前者の「以」で他動性の処置の対象は明らかでありますし、更に其の「以」のみにて下詞へ従属するための連用格的性能は十分に発揮せられておるからであります。頼山陽先生が如何に漢文を読んでおったか知る由もありませんが、此くの如く訓読せられておったのならば、きっとこの「以って」と重なるところが面白くないと感じたのではないかと思う。ただ訓読上馴染まぬものと見えても漢文法上間違いであるかと云えば、そんなことはない。作用の対象を二度まで「以」で送想的に扱っておるというのみであります。一種の強調であります。すなわち後者の「以」を形式感動詞の「乎」や、代副詞の「是」などに置き換えるも意義に大差ないものと思う。推測にしか過ぎないとは雖も、久保博士の謂う誤謬は文法上のものではなかろうと思う。漢文は文字自身が文法的性能をほとんど表さないため、文法的に間違いであると断言することが実はなかなか難しい。一見誤りの如く見えても、理論上も其の不可なることを証することは西洋語ほど簡単なことではないのです。因って後世のものが浅薄なる理解で先人を批評すると却って識者のために笑われることにもなりかねないのであります。

最後に、久保博士による日本外史以後に読むべき漢籍を挙げて置きます。

十八史略、蒙求、文章軌範、古文真寶、小学、近思録、唐詩選

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