漢文を読んでみる

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漢文の勉強を始めるに当たりまして、初手から堅苦しい品詞や文法の名前を見たのではすぐに嫌になってしまいましょうから、そんな小難しい話は脇に措いておきまして、とにかく漢文をちょっと読んでみましょう。

 

曾子寢疾病

「曾子」と言いますのは孔子の門人のことであります。「疾病」は日本語でも病気の意として用いますが、ここでは切り離して考えます。「疾」はやまいの意、「病」の方は「重篤」の意に解します。漢字の意味はこれで良いとして、さてそれでは一体どう読むのかということになります。ある人は、

曾子は寢ぬ、疾が病(へい)なり

と訓んで、曾子は横になる、病気が重篤である、などの意に取るやも知れぬ。当たらずとも遠からずでありまして、そういう訓じ方を間違いとは言えない。しかし、「寢疾」の二字の関係をもっと上手に繋げることが文法上可能であることを知らなくてはなりません。漢文では動詞が原因を客語として取れるのです。「死於盗賊」とあれば、「盗賊」は「死」の原因であり「盗賊を原因として死ぬ」の意となります。これと同じで「寢疾」も「疾を原因として寝る」、口語的に表現すれば「病気で寝る」のです。こう考えれば上文を読み下して、

曾子は疾に寝ね、病なり

とでも訓めば良いことが分かる。「寝ね」は「寝ぬるも」などと読もうが無論構いません。「てにをは」であったり動詞の活用を表す語尾変化なりが漢文には無いのでありますから、どうしても細かいところは不明瞭にならざるを得ないのです。日本語に直して読むときには解釈をして後、その解釈に合わせて適宜助辞を補いながら読み下すことになります。どうも意味がよく分からないと言うようなときは、たとえば「曾子は寢疾にして、病なり」、「曾子は寢疾病す」などとしてお茶を濁すことになります。「寢疾病する」などという言葉は聞いたことがないとおっしゃりましょうが、意味が分からないのですからとにかく「曾子」を主語とする何かしらの作用であろうと考えて斯くは読む次第となるのです。

【参考】

原因を客語とすることに就きましては、松下大三郎『標準漢文法』六百三十四項「原因的依拠化」参照。

 

夜讀達旦倦則據梧坐睡未嘗就衾褥

「梧」は机。「衾褥(きんじょく)」は夜具。夜中読書して明け方に至り、疲れれば机に凭れて居眠りし、決して寝床に入って寝たことはない、というのです。これは殊更に文法など持ち出さなくても「夜讀達旦」、「據梧坐睡」、「未嘗就衾褥」などの熟字を目で追うだけで何となく意味が取れましょう。ちょっと文法的なことを申しておきますと、「夜讀」の「夜」は「讀」に対する修飾語であります。「朝新聞を読む」なら「朝読新聞」となるのです。「達旦」の「旦」は「達」に対する客語であります。「夜に達す」ならば「達夜」にするのであり、「夜達」ではありません。「未」は「不」と同じで副詞です。英語の「not」と同様に考えてよい。「我、書を読まず」ならば「我不讀書」であり、「不我讀書」でないことに注意しましょう。

 

南村群童欺我老無力

「南村群童」はそのまま「南村の群童」と訓めばそれで良さそうでありますが、そのあとはどうか。仮にこれがよく分からなくても南村の子供らの何かしらの動作を言っておるのであろうと当たりをつけて、「欺我老無力」全部を主語である「南村群童」に対する叙述語と看做せばよい。そうすれば、「南村の群童が欺我老無力す」と兎に角も読める。ここに於いてはじめて「欺我老無力」の分析に取り掛かるのです。「欺我」は「我を欺く」ととりあえず読める、「老無力」も老いて無力なり(または力無し)と読める。さて、この二つの言葉はどういう関係でありましょうか。或いは「南村群童欺我」と「老無力」とは別の文(sentence)なのでありましょうか。もしそうだとすれば、「南村の子供らが私を欺く。(そは私が)老いて無力なのである」という意味にでもなりましょうか。これを論理的に分析すれば、「南村群童欺我」が結果(または帰結)で、「老無力」が其の原因(または理由)であるとは言えます。すなわち「老いて力無きが為に、子供らが私を欺く」と解せる。そうやって推理してゆけば、この句は先の「寢疾」と同じものと看做せることになるのです。「寢(横になる)」が結果で、「疾(やまい)」が原因です。この句を「疾に寝ぬ」と読んだのですから、ここも「我を老いて無力なるに欺く」と読むことになるのです。もちろん、「我を欺く、老いて無力なればなり」と読むも可であります。しかしこれは結局のところそういう風に論理的に分析できるというのみにて、漢文そのものにはいづれが原因で、いづれが結果であるかを表す記号は何も無いのです。ただ「南村群童」「欺我」「老」「無力」といった概念が並べられておるのみです。よって、「南村群童欺我」を主題として、其の概念を開発伸張し内にもとより含まれる「老無力」なる判定概念でもって主題を明瞭に判定しておると看做すことも出来るのです(ヴントの所謂依存的判断であります)。すなわち「南村の群童が我を欺く、そは(我が)老いて力がないのである」の如き観念連合とも解せる。先立と後立とは其の関係を具体的と見るならば、必ず相従うものなのです。漢人の是の如き文を解する感覚はこれに近いのではないかと竊かに思う次第でありますが、理屈に過ぎますのでしばらくこれは措いておきます(大西祝『論理学』付録第一参照)。

返り点の附し方

返り点の附し方

もし「 南村群童欺我、(または)老無力(老いて力無きが為なり、または老いて力無きを以ってなり)」となっておれば、「老無力」が前語に対して原因理由であることがはっきりします。然るに原文にはそういうものが無い以上、いくら文脈上「老無力」が原因であるとはいえ、其の原因たることを如何なる形式に於いて表しておるのかは、判然としないのです。

以下の図は右の文は「其の興る、必ず善を人に取る」と訓めばそれでよい。「其+動詞」の形は概ね名詞化すると覚えておいてください。国家の興る場合が、必ず善を人に取る場合である、というのです。便宜上、主体関係としましたが、「其興(国の興るときは)」を一種の時を表す修用語として看做しても構いません。その場合は修用関係ということになります。其れに対して、左のほうはどうでありましょう。「其」の字を除いたのみでありますが、こうしますと途端に概念関係が不明瞭になるのです。

詞と詞との関係如何

もし「興」を結果として、「必取善於人」を原因とすれば、必ず善を人に取ることを原因として(国が)興る、ということになり、読み下せば「興るは、必ず善を人に取ればなり」などとすることになりますが、やはりこれも先に述べましたように、支那人の理解する感覚としてはどこまでも先立概念と後立概念との統合であろうと思う。仮に先件後件の統合と考えずに、動詞の原因への依拠化として看做すならば、「必ず善を人に取るに興る」となります。最初の如く結果⇒原因の概念関係として看做すよりは、こちらのほうがよいとは思います。原因⇒結果の語順、つまり「必取善於人興」とすれば、概念の配列の順序が客観的時制にも一致する故、極めて自然に「必ず善を人に取りて興る」と訓むことになります。

ここまでで漢文を読むには解釈を立てることがもとより重要であり、さらに其の解釈も漢文法の知識無しでは放縦となり正確な読解の根拠が担保されないことがご理解いただけたと思います。

 

  • 特に今の若き学生諸君に(塚本哲三氏引用)

我々の学生時代には文語文の多くが漢文直訳口調であった為に、我々は漢文直訳の口調に慣れ切っていた。従って原漢文の意味が十分に了解されさへすれば、之を直訳流に読み下すことはいとやすいことで、何の手間ひまもいらなかった。上来説いたところも主としてさういふことを基調としているのであるが、翻って今の若い学生諸君の実際を見ると、我々とは大いに趣を異にするものがある。それは何かといふに、今日は漢文直訳調の国文が実用上に殆どその跡を絶ったが為に、諸君は三四冊の漢文教科書に於いて一週間一二時間もそれをやる位のもので、従って諸君はあまり多く漢文直訳の口調に慣れていない。そのために折角原漢文は分かっても、さてそれがどうすれば習慣的に正しい訓読になるかといふ事については、かなりな苦心を要し、時には妙な訓じ方をやるやうにもなるらしい。元来漢文を外国の古典文学として見るといふ立場からいへば、原漢文の意味さへ取れればそれでよいわけであるが、

(一)長い間の習慣上、漢文を直訳的に読んで、我々の間には自ずからそこに支那人の味ひ知らぬ別個の古典が形成されていること

(二)今の中等教育なり入学試験なりの実際が、どこまでも直訳流の訓読を要求していること

斯ういふ二つの理由から、諸君はやはり漢文直訳の習慣的口調に習熟しなければならぬのである。そこで自分は、

本書所蔵の例題の訓点、亦は教科書の訓点等によって、句読返り点送り仮名の習慣的形式に習熟すべく意識的に努力すること

を極力お勧めする。これはさう大して複雑なものでもなく、ひどく骨の折れることでもなからう。折角意味は分かりながら、返り点や送り仮名の間違いの為に長蛇を逸するやうでは、真に惜しむべき極みである。

諸君は高校などの問題が例年返り点つきであるのを見て、非常にやさしいと思っているやうだ。それは勿論純白文よりはやさしい。けれども文意が分からなくては返り点があっても結局正解は出来ないし、文意が分かって見れば返り点を附ける方がらくで、送り仮名をつける方が却って骨が折れる。つまり、らくな仕事がしてあって、骨の折れるほうの仕事は諸君に課せられているのだから、返り点つきの問題もさう非常にやさしいものだとは考へられない。このことをよくよく了解して、上述するところの意識的努力を重ねなければならぬのである。

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