センター漢文 追記

月曜日 , 20, 1月 2014 Leave a comment

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ネットでいくつかの記事を見ましたところ、問二の問題の解説でこういうものが多いようです。即ち「清嗜」を「動詞」の形であるから、「Vするに~を以ってす」と読む故に答えは云々である、と。しかしこれは本末顛倒の説明だろうと思う。そもそもまづ何を以って「目」を動詞とするか、実際選択肢には「目」を名詞として訳読してあるものもある。普通の人は長かろうが短いものであろうがうまければ構わず食べるが、風流人は違う、長いのは食わぬ、なぜなら「目以清嗜」である、の如き意に私は解しておりますが、この場合、例えば「(風流人とても口に甘きを嗜むのはもとよりであるが)目には風雅を嗜む、依って長いのは取らず」と解せば、「目以清嗜、不靳方長」を読み下して「目、清を以って嗜み、方に長ずるを靳らず」などとすることになります。はたまた風流人は目をば以って清く嗜むというならば、「目以って清嗜す」とでも訓むことになります(*)。要しますに「目」が動詞であるかどうかは解釈に由るのです。「もくす」と訓むから動詞なのではなく、動詞と解釈するから「もくす」と訓むことになるのです。「以」が上語に属せしめられるのか、下語に掛かるのかは解釈によるのです。解釈なしに直ちに「目するに清嗜を以ってす」と読めるものではないのです。無論、実際読書するときには直感で判断されましょうが、人に説明する場合には、こう解釈したからこういう品詞として読むのだ、という仕方でなければ納得してもらえないのではないかと思う。

(*)「目以清嗜」を「目以って清嗜す」と読み下すことは文法上可能なのか疑問でありましょうが、これは間接客体の提示と謂うもので、

  • 衣食於奔走 (韓愈・與陳給事書)
  • 目以處義、足以踐德 (國語)

の如きと同じです。松本洪先生の『漢文を読む人のために』(四〇九項)という書で、この「衣食於奔走」を「奔走することによって生活してゆく」と言う意に解して「奔走に衣食す」と読んだ者があったということが書かれてありますが、一般には「衣食に奔走す」と訓まれるものであります。即ち本来「於衣食奔走」とあるべき前置詞「於」の客語が上に飛び出したのです。

また「目以清嗜、不靳方長」の解釈自体についてでありますが、これを「風流な人は美しい竹林を嗜好するから、長くなった竹は取らぬ」と解しておるものもあります。或はそうかも知れぬ。ただ其の場合は下の「故」という語とうまく繋がらないように私には思われるが、ちょっとわからない。しかし「故」を「乃」の意に解せば通る。即ち「風流人は清雅を好み美しい竹林を愛するため、ちょうど成長した竹は鑑賞にのこしておく、しかし、一旦うまいと分れば、主人の愛護する庭園と雖も長短構わずに取ってしまう」と。風雅を愛する者と雖も結局甘を貴ぶという思想は、本文の甘いものは取られ苦い者は捨て置かれるという一貫した趣旨に合致するもののようであります。

  • 「幸」の一字について一考

問題文の最後の方に「亦知取者之不幸而偶幸於棄者」とあります。直訳的に「亦た取者の不幸にして棄者に偶幸あるを知る」とでも訓んでおきますが、「幸」字は説文に「吉にして凶を免る」とあり、また論語皇疏に「凡そ応(まさ)に死すべくして生きるを幸と曰ふ、応に生くべくして死するを不幸と曰ふ」とあります通り、本来義のため自然淘汰のためなりで、死ななければならないところを、諸々の事情で運よく生きながらえるものを幸といい、本来長く生きて後生を指導すべきであるも諸々の事情で死んでしまうものを不幸というのでありまして、今我々が使う幸不幸とはちょっと違う。「取者之不幸」は「不」の字を以って「幸」を打ち消しておる。吉にして凶を免れる、運よく助かる、そんなことは無いといっておるのです。山に隠れようが、家に引きこもろうが必ず取られる。才能あるものの運命であります。然るに「偶幸於棄者」は「偶」の字を以って「幸」を修飾しておる。何の役立たずでも、たまたま運よく助かる、寿命を全うする、そういうこともあるというのです。無能であるから生存競争を勝ち抜けないはずであるが、却って面倒に巻き込まれず無難に一生を終えることもある、そんなところでありましょうか。単純に取られるものにも不幸な場合があり、棄てられるものにも幸福な場合があると解するよりも、一層味わいがあると思う。

ただこの場合、荘子の所謂無用の者が却って大用を為すなどと言う類とは似ても似つかぬことになりそうであります。依って「豈」も反転として解すことになる。即ち「どうして無用の者が大用を為すという荘子の説の如きであろうか、有用の者は取られるがそれだけの用を為す、然るに無用のタケノコは所詮無用である、徒に長生きするだけで何の用も為さぬ」と。

渋沢翁もおっしゃっておりますように、やはり読書ばかりが勉強じゃない。タケノコを掘り、料理し、食らう、これも勉強であります。この経験が無い私にはタケノコの例がよくわからない。

また今回久しぶりに試験問題などというものを解いてみて思ったことは、読書とは試験問題を読むが如く真剣でなければならぬということでありましょうか。眼光紙背に徹し文章を覚えるくらいに何度も読む、そうでなければならぬ。日ごろ私自身は文法学習を主とし、ややもすれば漢文を其の材料くらいにしか考えておらぬときが間々ある。文法解説の為に都合の良い例文はないか、そんな観点から古書を見てしまっておる。漢文を読む時間より文法書を読んでおる時間のほうが長い。漢文を独力で読むことを目標にしておる以上、漢文を主としなければならない。漢文学が体であり、文法は用である、漢文を筋骨として後、文法が血肉と生ず。そんな基本的なことを改めて反省させられたセンター漢文でありました。

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