或るブログを批評的に読む

月曜日 , 13, 1月 2014 Leave a comment

以下表題にあります通り批評的な内容を含みまして、ややもすれば露骨な駁論の如き感を抱かしむるに易きも、此れは徒に対者を毀誉褒貶するの為にあらずして、ただ松下文法に準拠した場合の説との比較に便ならしむる為でありまして、こうすることで従来の漢文教授が如何に浅薄なるものであるかを明らかにしようというわけであります。

某ブログでは、まづ漢文の基本的な構造を説明し、最後に和文に読み下した文を再びもとの漢文に戻す作業である復文のやり方を紹介しておるのであります。其の説明に対して以下のことを述べてみたい。

  1. 単独論と相関論との混雑
  2. 自身の説明に於ける矛盾

一、単独論と相関論の混雑

単独論とはEtymologyのことで、相関論とはSyntaxのことでありますが、従来の参考書の類は本来明確に区別すべきこの二者を概ね混同しております。即ち、文の構造を説くに「主語+動詞+目的語」の如くしておる。「動詞」は品詞であり単独論に属すものでありますが、それに対峙せしむるに「主語」や「目的語」などの文の成分、即ち相関論に属す用語を以ってしておるわけです。異なる界限のものを同等の立場にて並列しておるのです。もし此れを松下文法に従って分解すれば、「主語+叙述語」とまづ分解され、而して後、叙述語の内部を再び分解して、「帰着語+客語」の如くすることになります。主語も叙述語も帰着語も客語も皆文の成分であります。

  • 「我愛之」の分解例

某ブログ) 我(主語) + 愛(動詞) + 之(目的語)

 

松下文法) 我(主語) + 愛之(叙述語)

叙述語を更に分解して、 愛(帰着語) + 之(客語)

この分解の仕方の差異がどういう影響をもたらすかといいますと、例えば、「泥棒を追跡する警察官」を漢訳した場合、以下の如き差が出ます。

(従来の分解) 追跡泥棒(修飾語) + 警察官(被修飾語)

「追跡」と「泥棒」がこれ以上分解できない。なんとなれば仮に分解したところが、「追跡」に対する名目がないからであります。

 

(松下文法の分解) 追跡泥棒(連体語) + 警察官(被連体語)

連体語を更に分解して、 追跡(帰着語) + 泥棒(客語)

松下文法に則れば如何なる詞と詞との関係も徹底的に分解できるのです。松下文法では「追跡泥棒」の如き詞を連詞的動詞といいます。連詞と言いますのは「詞」と「詞」とが連なっておるから連詞というのです。即ち「追跡」という動詞と、「泥棒」という名詞とが文法的関係(この場合は帰着語と客語との関係で客体関係という)で統合せられておる。次になぜに連詞的「動詞」というのかと申しますと、連詞は必ず従属と統率との関係で統合しておりまして、必ず一方が代表部(統率部)で、他方が従属部となります。「追跡泥棒」で言えば、「追跡」が代表部となります。要しますに「追跡泥棒」は事物を表すのでなく、事件を表しておるのですから、概念の代表部は帰着語である「追跡」になるのです。追跡の対象が何であれ、とにかくこの連詞は追跡という事件を表しておるのです。依って連詞的動詞とはいうのです。この連詞的動詞をそのまま一つの事物と看做して他の帰着語に対して客語とすることもできる。たとえば「好追跡泥棒(泥棒を追跡するを好む)」の如きであります(この場合の「追跡泥棒」は動詞性名詞と言いまして名詞化しております)。これまた出来た結果として「好」を代表部とする一つの連詞的動詞でありまして、これを連体格的に運用して名詞の上に冠せば「好追跡泥棒(之)警察官(泥棒を追跡するを好む(の)警察官)」となる。連体関係の連詞は被連体語、今の例で言えば「警察官」(名詞)が代表部となりますから、「好追跡泥棒(之)警察官」を松下文法では連詞的名詞というわけです。連詞的名詞も要するに名詞でありますから、帰着語に対して客語になれる、仮に「好追跡泥棒(之)警察官」を「X」とおいて、「悪X(Xを悪(にく)む)」とする。「X」を元に戻せば「悪好追跡泥棒(之)警察官」となる。即ち「泥棒を追跡するを好む警察官を悪(にく)む」となるのであります。複雑な句に見えますが、簡略化して示せば「悪+警察官」であります。「警察官」にいろいろな修飾語がついておるだけで其れを取ってしまえばなんと言うことは無い。敢えて連詞の中身を複雑にしましたが、其の複雑なものも分析してしまえば、上述の如き道理であるわけであります。この道理が分ってしまえば、漢文がよく見えるようになってくると思う。

また某ブログでは漢文と英文とを比較して所謂「助動詞」の説明をしておるのでありますが、文の成分としての詞の概念を明確にしない為に、漢文の「可」の如き詞を英語の助動詞(auxiliary verb)と同じであると謂ったそのすぐ後に、これを日本語の助動詞に比すと言うことを何の躊躇も無く致してしまうのだろうと思う。英語の助動詞は文字通り「verb」であります。助的動詞であります。今で言う補助動詞です。其れに対して日本語の助動詞は動詞ではないから助的動詞とは謂えない。また動詞を助けるばかりでなく、「(我は)太郎なり」の如く名詞を助けることもあるのですから、動詞を助けるというわけでもない。要しますに日本語の所謂助動詞は動詞的性質はあるが、詞ではなく辞(詞の材料)であります。其れに対して漢文の「可」も英文の「can」も皆詞であります。次元が異なるのです。英独語に謂う助動詞と国文法に謂う助動詞とは文法的に全く異なるものであることを意識していただきたい。「可」は一字でも文として成立しますが、日本語の「べし」は其れのみにては決して文を成さないのであります。こういう簡単な現象を無視しないことであります。

「可」を読み下して「べし」とする慣習ではありますが、直訳的には英語の助動詞と同じなんだと自身に言い聞かせることです。たとえば「是可以楽而忘死矣」は普通「是れ以って楽しんで死を忘るべし」と訓まれますが、「可」を詞として直訳すれば、「是れ以って楽しんで死を忘るるに可なり」とでもすればよい。こうすれば「可」の依拠性動詞なる性能が大体日本語の依拠性動詞として訳されておるわけでありますから、直訳に近い。文法的意義と解釈的意義とを混同しないことです。如何なる解釈的意義も其の根本は文法的意義にあるのでありますから、我々は本を尋ねるべきであり、末に恋々たるには及ばんのです。

 

二、自身の説明に於ける矛盾

某ブログに曰く、

「修飾語は被修飾語の前に来る」

 

「名詞を修飾するものは名詞の前だけど、動詞を修飾するものも動詞の前。たとえば英語ならcome from Japan(日本から来る)と動詞comeの後ろに前置詞句from Japanがくるけど、漢文の場合は「自倭国来」と動詞「来る」の前に「自倭国(倭国より)」が入る。」

この原理にどこまでも従うものならば恕すべきに庶からんも、其の直ぐ後に、

「〈置き字〉で一番良く出てくる「於」は前置詞なんだけど、あまりにもいろんな使われ方をするんで、いっそ文字自体は読まないことにして、送り仮名を取り替えることで処理したんだ」

 

「「於」は前置詞だけで5つくらい意味・機能がある。英語で言うとinとかformとかtoとか、比較のthanとか受け身のbyとかね。」

とありまして、「自」も「於」も氏の説明に依れば前置詞と看做しておるようであります。それはよい。実際、「自倭国来」の如く漢文に於いては修飾語が必ず被修飾語の前に来る(倒置は除く)。しかし、「王委政於尹氏(王、政を尹氏に委す)」の如きはどうするか。「於」は前置詞ではないと言えば已む、然るに苟も前置詞と認めたからにはこれに対して説明を施さなければ、「修飾語は被修飾語の前に来る」という最初の説が成り立たなくなる。そもそも「自」に於いてすら「歩自雪堂(雪堂より歩す)」(後赤壁賦)の如き例は幾らもある。これらの「自」や「於」を皆前置詞と言うのみにて、其の實、動詞の後ろに来る場合を無視するのでは漢文学徒の悩みは救われまい。

松下文法に則れば、これら(歩自雪堂や王委政於尹氏)の「自」や「於」を前置詞性動詞と謂う。要しますに動詞であるというのです。実質的意義は他詞に依り補充するも、其れ自身に叙述性があると言い切っておるのです。これこそ真摯な学者の言葉でありましょう。此くの如き「自」や「於」が形式的意義をのみ持つ動詞であるとすればこそ、某氏の説にもある通り「修飾語は被修飾語の前に来る」という大前提が担保せられ、漢文の詞の排列が英文の如き乱雑なものでないことが理論的にも明らかにせられるのであります。

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