『是不亦責於人者已詳乎』の補足(一名 「なり」への接続)

土曜日 , 9, 11月 2013 Leave a comment

以前に旧ブログで扱った記事についての補足です。

松尾捨治郎氏曰く、

(はやても龍のふかするなりけりの)「龍のふかするなりけり」は、広日本文典流にいへば、連体に「なり」が附いたものとなるが、此は断じてさう見るべきではない。さう見ては、「北野におぢ申させ給ひてなりけり(大鏡)」、「大方はげにもさこそ思食すらめなれば(平家)」などの例は、説明の仕方が無くなって了ふ。此は「龍のふかする」が一つの名詞句であって、其の下に「なり」がついたものである。「なり」は連体形又は体言に附くなどと説かずに、常に名詞又は準名詞の下に附くと説くべきである。 (『国語法論攷』二〇一項)

これを要しますに所謂指定の「なり」の上にある語は簡単の為に「X」に置き換え得るということであります。「龍のふかするなりけり」は「Xなりけり」に同じであり、「北野におぢ申させ給ひてなりけり」も「Xなりけり」に同じであります。「彼は少年なり」の「少年」が名詞であるように、「X」はいづれも名詞(厳密に言えば概念の実質化したもの)なのです。

さらに松尾氏は同書一二六項にて、「なり」の前語が連体形であることを以下の如く解説しておられる、

之を下に「なり」を附ける為と考へるのは差支ないが、名詞句の述語たる役目を果たさんが為に連体形を取った(筆者註:此れを松尾氏は不完全動詞「なり」に対する補足語と呼ぶ)と見るほうが、一層合理的である。

と。「名詞句の述語たる役目」とは正しく松下文法に於ける「動詞の表示態名詞化(動詞性名詞化に同じ)」であります。

  • 取之無禁、用之不竭、是造物者之無盡藏也 (蘇軾・前赤壁賦)
  • 子貢曰紂之不善、不如是之甚也 (論語・子張)
  • 是不亦排之者、未必得其道乎 (藤田東湖・弘道館記述義)

赤字の部分はいづれも「名詞句の述語たる役目を果たさん」とする状態にある観念、すなわち動詞性名詞にして、これから帯びんとするところの叙述性に対する実質(松尾氏の言う補足語)でありますが、忽焉と叙述性を帯びるに至り以って叙述態名詞となるわけであります。赤字はまづ「X」となり、而して後叙述性「なり」を帯びるのです。「如是之甚」は「是くの如くして之れ甚し」ではなく、「是くの如きの甚しき」(X)+「なり」であります。「排之者、未必得其道」は「之を排する者、未だ必ずしも其の道を得ず」ではなく、「~得ざる」(X)+「なり」であります。読み下せば、「是れ亦之を排する者、未だ必ずしも其の道を得ざるならずや」であります。「是不亦排之者、未必得其道乎」は「是不亦X乎(是亦Xならずや)」に同じなのです。

日本語に於いては「X」なる概念の実質化したものと「なり」なる動助辞の複合を以って精密に分析的に表すものを、漢文に於いては単詞、連詞を問わず、唯「X」の標識のみにて表しておるのです。


【参考】

松尾捨治郎 『国語法論攷』(不完全動詞、六〇五項)

因みに言う、同書七六八項に「いと思はずなり(土佐日記)」の「なり」の前語を連用形名詞法と見るべし、との記述あり。これは松下博士の所謂「中程形の無活用化」(『改撰 標準日本文法』一三三項)に当たるか。

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