「奚自」の文法

火曜日 , 22, 10月 2013 2 Comments

不定副詞の「何(奚)」に就きましてはこちらもご覧ください。今回見ますのは以下のごとき句であります。

子路宿於石門、晨門曰奚自、子路曰自孔氏 (論語・憲問)

「晨門」は「晨門者閽人也(晨門とは閽人(こんじん)なり)」と註されておりまして、要するに門番です。「閽」といいますのは説文に「常以昏閉門隸也(常に昏を以って閉門する隷なり)」とあります。「常以昏閉門」の「隷」に対する関係が連主・連体であることを思い出してください。「高飛鳥(高く飛ぶ鳥)」の「高飛」が「鳥」に対する関係に同じです。

次に本題であります「奚自」「自孔氏」の部分の註を見てみましょう。

子路宿於石門晨門曰奚自者、石門地名也、晨門、掌晨昏開閉門者謂閽人也、自從也、奚何也、時子路宿於石門、夙興為閽人所問、曰汝何從乎、子路曰自孔氏者、子路答閽人、言自孔氏處也 (論語注疏)

『「子路宿於石門晨門曰奚自」は、石門は地名なり、晨門は晨昏に門を開閉するを掌る者にして、閽人と謂ふ、「自」は「従」なり、「奚」は「何」なり、時に子路石門に宿す、夙く興きて閽人の問ふ所と為る、曰く、汝何(いづく)にか従(よ)って来たる、「子路曰自孔氏」は子路閽人に答ふるなり、孔氏の処に自りて来るを言ふなり』と訓じます。

「何從來」の「何」を「いづくにか」と訓んでありますのは間接客体の提示(七一三項)を明瞭にするためです。「いづくに従りてか来たらん」などとしないよう注意しましょう。提示されておるのは「従」の客体である「何」なのです。「何」が修用語で、「従来」が被修用語なのです。

「奚自」も「自孔氏」も註において「来」という動詞が補われておりますが、この説明はもとより解釈上のこととは雖も、文法上もほぼ同様に考えてよいものであります。すなわち原漢文の「自」は本来前置詞でありますが、ここでの運用に於いては動詞性を帯びておるのです。これを前置詞性動詞といいます。形式動詞「為」の意義を帯びておるのです。「自」は「より」ではなく、「よりす」(四六四項)なのです。「歩自雪堂」とあれば、「歩する(不定法動詞)、雪堂に自りてす」と訓むのに同じです。ただ形式動詞「為」の実質的意義を補う仕方が一方は「寄生」で、他方は「単純」であるという差があるのみです。「来自孔氏処(来る、孔氏の処に自りてす)」とでもすれば「自」は前置詞性単純形式動詞となります。

「奚自」の「奚」は不定名詞ではなく、不定副詞です。所謂内包的客語です。厳密には提示されておるわけでありますから、客語ではなく客体概念というべきものです。

老耼曰汝將始、曰始於齊 (莊子・則陽)

この「何」は「いづくより始めんとす」と訓みまして、英語の「whence」などに比すべきものであります。初学者の方はこういうものを訓から解釈しようとする嫌いがありますが、そうではなく「何」の文法的性能が此くの如き訓読を導き出しておるのです。然らば「何」の文法的性能はどうかといえば副詞にして下詞に対する修用語であります。修飾性であろうと補充性であろうと、不定なる実質的意義で以って下の詞を修飾しておるのみです。「何」を未知数Xとすれば、「将にXで始めんとするか」の如き気味であります。この文法的意義があって後、理由、場所、事物、時などの解釈的意義が生じるのです。「いづく」と訓むから場所を表すのではなく、場所を表すと解釈するから「いづく」と訓んでおるのです。文法的にはどこまでも不定副詞による修用語というばかりです。本末を顛倒なさらぬよう気をつけてください。解釈としては「奚自始」、「何処自始」、「自何処始」、「始於何処」などに同じ。「将」は副詞にして修用語。

 

2 Comments
  • higuti より:

    「奚自」は、本来「奚自来」とあるべきところを「来」を省略したものと考えれば、「自」を通常の前置詞ととることも可能に思えますが、この見方は間違っているのでしょうか。

  • 永山裕介 より:

    これはなかなか難しい問題でありますが、以下の如き例を推して研究していただきたい。

    1、月於東山之上出
    2、月出於東山之上
    3、月出也於東山之上

    これらの中、文法的に前置詞なのは1、のみであります。2、は所謂「前置詞性単純形式動詞」であります。即ち動詞であります。なぜこれが動詞かと申せば、3、の如き例と併せて考えれば、どうしても「於」に叙述性を認めざるを得ない為です(前置詞が従属的成分であることを確認して下さい)。「於」に叙述性(統覚)が無ければ文として成立しなくなってしまう(或は仮にこれを前置詞とした場合、修用関係の詞の排列に例外を作らなければならなくなるのです)。由って2、3、の「於」は「於いて」ではなく、「於いてす」の意であります。「す」は形式的意義しかありませんが、2は単純なる実質語によって其の実質を補充せられ、3は寄生によって実質化します。故に3の「於」を松下文法では前置詞性寄生形式動詞と謂います。

    「奚自」の「自」も「より」ではなく「よりてす」の意であります。もし前置詞とし考えたならば、即ち文の成分として修用語として考えた場合は必然的に被修用語が無ければならない。然るに其れはない。そこでどうしても理論上、「自」のうちに被修用語(「す」)が”含まれた”(省略ではなく、未分化の状態で含まれておるのです)ものとして解することになるのです。こういうものを松下文法では正態詞に対して変態詞といいます。

    號泣「于」旻天「于」父母則吾不知也 (孟子)

    この「于」、特に後者のは形式的意義のみと雖も、叙述性あるものと解してこそよく文法的に納得できるものと思います。

    因みに「奚自来」とあればもちろん此の「自」は前置詞です。また「来自何処」とあれば此の「自」は前置詞性の単純形式動詞となります。「来る、何処に自りてする」の意です。

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