孤独を嘆く権力者は、自ら暗君なるを告白するものなり

日曜日 , 5, 1月 2014 Leave a comment

今や時の権力者に親しむべき友の居らないことは常識の如く思われておりますが、是れ固より下の者が上を敬うことの禮なるのみを知り、上の者が下を敬うことの義にして最重要なることを知らぬためであります。上の者が徳を友とせんと思わば、必ず友を得るものであります。後世の人君に友が居らぬのは、賢を尊ぶことを知らぬためであり、賢を尊ぶことを知らぬものは、問い諮るべき益友無き以上、治世を望まんと欲するとも、出来ぬものであります。

天下有達尊三爵尊於朝廷齒尊於鄉黨尊輔世長民莫德為尊古之道也故有忘王公之貴而友匹夫之賎若堯之於舜晋平公之於亥唐是也及乎後世道徳下衰唯知以下敬上之為禮而不知以上敬下之為義最重也故古之賢君必有友友其徳也後世人君無友不知尊賢也雖欲望治而可得乎 (伊藤仁斎・孟子古義)

  • 漢文法

『莫德為尊』の文法

私は以前にも此くの如き文法の句を「客体関係内にある提示の可否」など何とか言って理屈を附けようと試みたものでありますが、果たして其れが理論的に可なるものかいまひとつ確信に至らぬのでありますが、とにかく実際にそういう語法はある。ただそれだけであります。もし「徳」(本名詞)が「是」や「之」などの代名詞または形式名詞であるのならば、話は単純であります。即ち「荒政之施、莫此為大」(夢溪筆談)などの場合と同じであります。本来「莫為此大」とあるべき様の「此」が否定語あるために帰着語の上に出たのみです(此くの如き条件が揃ったときになぜ特殊な配置になるかの所以は七八七項参照)。「為此大」の「此」は「為」の依拠性に対する客語です。「大於此」とするも同じ。「此」の依拠格的なるを示すに「為」の客語にするか、「於」の客語にするかの違いであります。解釈として比較を表すと看做す分には構わないにせよ、文法上は比較を表すに依拠性を以ってしておるのでありますから、余程注意が必要であります。

また石川鴻斎氏の『続文法詳論(下巻、十八項)』には、「莫此為甚」、「莫大於此」、「茲焉莫甚」の如き例を雑格として挙げておられますが、最初のは上述しましたように帰着語「為」が否定語を上に戴くために客語「此」(代名詞)が帰着語の上に出たものであります。次のは文法的に言うほどのことは何も無い。直訳的に読めば「大なること此に於いてするもの莫し」とでもなります。この「大」は比較態(英語で言えば比較級を表す-erが附いておる状態)です。「此」という対象に対して「大」という概念が考えられておるのです。「於此」は「焉」でもよい。最後の「茲焉莫甚」は客体の提示です。本来「莫甚於茲」とあるべき「茲」が上に提示されたのです。「焉」は「是」「之」と同様上語を再示する名詞です。比較の対象を上に出す例としては「我伐用張、于湯有光」(書経・泰誓中)の如きもありますが、これは提示ではなく平説の修用語であります。

因みにこの「莫德為尊」は孟子原文では「輔世長民莫如德(世を輔け民に長たる、徳に如くもの莫し)」となっております。

『堯之於舜、晋平公之於亥唐』の文法

これは「漢文法鉄則」にある形です。直訳的に読み下せば、「堯の舜に於いてすること、晋の平公の亥唐に於いてすること」となります。「於」が前置詞性動詞の名詞化したもので、複雑変態詞の一つであります。要しますに「堯之於舜晋平公之於亥唐」全体が一つの名詞でありますから、これを仮に「X」とおけば、「若X(Xの若(ごと)し)」の構造に過ぎないのです。

其徳也』の文法

当サイトではこの類、すなわち名詞性動詞の他動性的用法の講述をしばしばしておりますから、読者の皆様も理論はさておき実際上こういうものに何となくであるにもせよ、慣れてこられたと思う。私自身がこういうものを読みますときには、一致性の考え方に総括しておりまして、頭の中では「其の徳」と「友(的状態)」との一致として納得しております。一般に読み下すには「其の徳を友にす」「其の徳を友とす」などとします。「輔世」「匹夫之賎」も皆同じです。ただ「長」は解釈上自動性でありますから、「民を長とす」ではなく、「民に長たり(直訳的に訓めば、民に長的状態とあり)」の如く読み下すと云う差はあります。いづれにしましても皆悉く一致の概念の下に扱いうることは同じです。即ち、其の徳が友であり、匹夫の賎しきが友であり、(ある主体が民に)長たるわけであります。


【参考:写し方と返り点の附し方の例】

孟子古義例

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