『莊暴見孟子章』(孟子)の文法 (附思想と判断)

水曜日 , 18, 12月 2013 Leave a comment

ちょっと長いですが、文法上それほど難解なところもありませんので、自分なりに句読を切りつつ書き写してみてください。

莊暴見孟子曰暴見於王王語暴以好樂暴未有以對也曰好樂何如孟子曰王之好樂甚則齊國其庶幾乎他日見於王曰王嘗語莊子以好樂有諸王變乎色曰寡人非能好先王之樂也直好世俗之樂耳曰王之好樂甚則齊其庶幾乎今之樂由古之樂也曰可得聞與曰獨樂樂與人樂樂孰樂曰不若與人曰與少樂樂與衆樂樂孰樂曰不若與衆臣請為王言樂今王鼓樂於此百姓聞王鐘鼓之聲管籥之音舉疾首蹙頞而相告曰吾王之好鼓樂夫何使我至於此極也父子不相見兄弟妻子離散今王田獵於此百姓聞王車馬之音見羽旄之美舉疾首蹙頞而相告曰吾王之好田獵夫何使我至於此極也父子不相見兄弟妻子離散此無他不與民同樂也今王鼓樂於此百姓聞王鐘鼓之聲管籥之音舉欣欣然有喜色而相告曰吾王庶幾無疾病與何以能鼓樂也今王田獵於此百姓聞王車馬之音見羽旄之美舉欣欣然有喜色而相告曰吾王庶幾無疾病與何以能田獵也此無他與民同樂也今王與百姓同樂則王矣 (孟子・梁惠王下)

(註):莊暴、齊臣也

漢文法:

  • 動詞+前置詞(以、於、于、為、與等)の文法

この「動詞+前置詞」に当てはまる構造の句を上記より抜き出せば、

  1. 見於王
  2. 語暴以好樂
  3. (他日)見於王
  4. 語莊子以好樂
  5. 變乎色
  6. 鼓樂於此
  7. 至於此極
  8. 田獵於此

の如きであります。いづれの前置詞も理論上は単純形式動詞化しておるものでありますから、「動詞+前置詞」の全体で一つの連詞的動詞になっておると考えてください。要するにこれらを否定に書き換える場合は、「見於王」、「語暴以好樂」などとするのです(「語暴以好樂」を否定にして「語暴以好樂」とする場合については後述)。5.「變乎色」の「乎」は理論上、前置詞性の動詞ではなく本性の単純形式動詞でありますが、ここでの文法的性能に於いては差がありませんので同様に扱います。

  • 「不與民同樂也」の文法

これ自体は何も変わったところもありません。すなわち「與民同樂」全体が一つの連詞的動詞でありまして、仮にこれをXとでもすれば「不+X」となり、所謂句形集にある「不+動詞」の構造であることが明瞭となります。「民と楽を同じくする、ということはない」というのです。試みにこの句を書き換えて、

  1. 與民不同樂
  2. 同樂不與民
  3. 同樂與民

とした場合の区別にも注意しましょう。文法的に申せば1.は属性的提示、2.は実質的提示、3.は提示ではなく平説で「同樂」と「與民」との連詞関係が実質関係であるというのみです。属性の提示とは、平説にある修用語を提示したもので、実質の提示とは「動きだにえせず」などに於ける「動きだに」の「せ」に対する関係を指して言います。3.は先に見た「動詞+前置詞」の関係に同じです。それぞれ漢文の例を挙げれば以下の如きであります。

  1. 喪禮、與其哀不足而禮有餘也不若禮不足而哀有餘也 (禮記・檀弓)
  2. 域民不以封疆之界固國不以山溪之險威天下不以兵革之利 (孟子・公孫丑下)
  3. 聽不失一二者、不可亂以言、計不失本末者、不可紛以辭 (史記・淮陰侯列傳)

上記の「同樂民(楽を同ふするに民と与にす)」も「亂言(乱すに言を以ってす)」も「紛辭(紛すに辞を以ってす)」も、皆「動詞+前置詞(厳密には前置詞性単純形式動詞)」の構造であることに於いて全く同じです。このような構造を松下文法にては実質関係(単純なる補充語(実質語)を以って形式的空虚を補充する関係)というのです。

  • 「齊國其庶幾乎」の「庶幾」

「庶幾」は松下文法に所謂「帰着形式動詞」でありますから、本来客語を取るべきものであります。然るに茲にて其れが無いのは言わなくとも分るために非帰着化しておるというわけです。

回也其庶乎、屢空 (論語・先進)

これなどと同じであります。上記論語の註には「回庶幾聖道」や「其近道」などとあり、客語として「聖道」や「道」が省略せられておることが分ります。因みに孟子の註には「齊國庶幾其治安乎」とあります。

  • 「今王與百姓同樂則矣」の「(王たり)」について

名詞性動詞(変態動詞)です。観念の比較的客観化せられて後概念たりうるまでの過程に於いてあらゆる関係が一点に統覚せらるるに依り、出来た結果として名詞と雖も、其の内容(内包)には其の以って事物となるところの生産作用をさえも含みおるのであります。是れ運用なるものの由って来るところであります。我々の注意が事物の生産作用の方に深くなれば、其れが名詞性動詞であります(四三一項)。すなわち王という事物があって為に直ちに王という概念に至るのではなくして、ただ以って王たるところばかりがまづあり、然る後にそれらが然るべき外延の元、論理学者大西祝氏の言を借りれば、一物の性質が其のものの一なるところに合せられると考えるのです。孔子の言に「王」字を説いて「三を一貫するを王と為す」とありますが、これが王の内包であります。「三」は天地人。即ち「王たり」とは王者の徳を以って天地人を貫き、皆其の王者の許に帰往する貌を言うのです。

周敦頤の『太極圖說』に以下の如くありますが、これなども言語観、概念の所以を表すものと見れば亦発明するところ無しとも思われませんので、敢えて載せておきます。

自無極而為太極、太極動而生陽、動極而靜、靜而生陰、靜極復動、一動一靜、互為其根 (太極圖說)

無極や太極とは、直感と考えればよい。陽は用であり、陰は体であります。陰また極まれば陽となり用を生ずると考えるのです。「靜極復動」などは、能く名詞性動詞に髣髴たるものと思う。ヴントは文を解釈して「思想の初期の心理的形式であって、或る意味に於いては、単語より一層前行した形式といってよい。(中略)単語は、文によってのみ表される初期の統一的思想の分解から、発生するものだからである」と述べられておる。「雨」と「降る」という単語が出来てから、「雨が降る」という文ができるのではなく、科学の証明するところは其の反対であるというのです。我々は「雨が降りつつある」光景を見て其の表象を得て、其の思想を漢文の如く分解せずそのまま「雨」という字に表すことも出来ますし、また日本語の如く「雨が降る」と主語叙述語の関係に分解して表すことも出来るわけであります。一旦混沌たる思想が分解せられて、「降る」なる概念に凝結すれば、何でも主語を変えれば「雪が降る」、「ひょうが降る」、「矢が降る」などと言える訳です。結果として凝結したものは再び己自身が原因となりまた動ずるのです(一動一靜、互為其根)。言語の極まりなき所以であります。

イェルサレム教授はゲルベルの語を引き、文法上より論じて曰く、「判断の形式は、語根が主格と賓格とに分るるによりて完成す。斯くして始めて主格は、吾人の「自我」の比論により独立にして且つ他に働きを及ぼすものとして認定せられ全過程はここに於いて宇宙の言語より人間の言語に翻訳せらる」 (元良勇次郎『心理学概論』七六一項)

【参考】

「獨樂樂與人樂樂孰樂曰不若與人曰與少樂樂與衆樂樂孰樂」の部分は対になっておることが分れば以下の如く構造を見抜けるはずです。

孟子梁1

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