「何」と「為」について

日曜日 , 1, 12月 2013 Leave a comment

白文(十九文字):

子路曰有民人焉有社稷焉必讀書然後學 (論語先進)

漢文法:

「何」は不定副詞(二八〇項)です。不定なる実質的意義を以って下詞を修飾しておるのみです。不定なる実質的意義というものが分り難ければ、「何」を「以何故(何の故を以って)」とでも置き換えればよい。一方は疑問の意を表す単詞的副詞にして、他方は連詞的副詞であるという差はあるにせよ、いづれも疑問の意を以って下の詞を修飾する修用語である点に於いて全く同じです。

「為」は「と為す」と訓じて一致を表す場合と、「す」と訓じて単に或る動作をするという形式的意義だけを表す場合との二種あります。其の区別は文脈に依ります。ここの「為」をもし「す」の意味に解しますと、「どうして必ずしも読書して後、学ぶことしようぞ」の如き意となります。またもし一致を表すとすれば、「どうして必ずしも読書して後に(其の場合を)学んだ(場合)為すか」の如き意になります。「を」と「と」との違いに注意してください。

因みに言う、渋沢翁はこの一節につき子路の言葉を可とし、「机上の読書のみを以って学問と思ふのは甚だ不可事である」と述べておられる。ここからも知れますようにこの「為」は一致的用法に解すことが普通のようであります。しかし文法的には「然る後、学ぶを為さん」と訓じたところが間違いとは云えないわけであります。

訓読:

子路曰く、民人有り、社稷有り、何ぞ必ずしも書を讀みて、然して後、學びたりと為さん


「為」を「す」の意として解した場合の「どうして必ずしも読書して後、学ぶことをしようぞ」に就きまして、ちょっとゲーテの言を思い出しましたので付記しておきます。ゲーテはかの哲学なり科学なりの学術書などを何らの予備知識も有せずに恰も小説を読むが如くに直ちに読み始める輩を評して斯く云う、

これらのおめでたい先生たちは、読書することを学ぶために人が如何許りの労力と時間とを費やしたかと言うことを知らないのだ。私は其の為に八十年を要したが今なほ、自分は標的に達した、といふ事は出来ない

我々普通に書物を読んで勉強すると考えがちでありますが、この言に鑑みれば事実は其の反対にして、却って勉強して後書物を読むと謂うべきでありましょうか。卑近な喩を引けば、祖父母の膝下にて東洋の歴史を多少なりとも聞き馴染んでおればこそ、嘗ての少年輩は十八史略なり日本外史なりを独力で読書し得たにせよ、そのような膝下の耳学問が家庭にて廃れてしまえば、読み下し文と雖も容易に読まれぬものでありましょう。すなわち学問の進む次第は、未知より已知にあるに非ずして、只だ粗なる已知より精なる已知にのみ向かって進むものと言うを可とするか。

陸象山曰く、

大抵讀書、詁訓既通之後、但平心讀之、不必強加揣量、則無非浸灌培益鞭策磨勵之功、惑有未通曉處、姑缺之無害、且以其明白昭晰者日加涵泳、則自然日充日明、後日本源深厚、則向來未曉者將亦有渙然冰釋者矣 (陸九淵集)

分らないものを無理に分ろうとするのでなく、分るもの(粗なる已知)を更によく分かるよう(精なる已知)になれというのです。

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