善と悪とは紙一重

木曜日 , 24, 10月 2013 Leave a comment

善と悪とは普通に考えれば両極端の如く思われますが、以下にありますように善い行いをしましても、それを人に知られたい、褒められたい、世間より評価されたいなどの心が生じれば、行い善にして、心には既に悪の萌しありというのです(善処即ち是れ悪根なり)。

  • 白文(句読あり)

為惡而畏人知、惡中猶有善念、為善而急人知、善處即是惡根 (醉古堂劍掃)

「知」は他動詞でありますから、客語を取るべきでありますが、既に「為悪(悪を為して)」と言っておるわけでありますから、「人知」の客体概念は言わなくても分るわけであります。これを非帰着化というのでした。「本を開いて、それから読む」の「読む」が非帰着化するのに同じ道理です。また「為惡而畏人知(悪を為して人の知るを畏る)」の「人知」を「人に知らる」などと被動調に読んではなりません。被動に読むには、「被人知」、「見知於人」、「知(於)人」、「為人所知(人の知る所と為る)」などとあるべきであります。理論上は「畏知」のみでも「知らるるを畏る」と読めないわけではありません。漢文は成語素(相)も成節素(格)も二つながら字のうちに含まれてしまうため、読者の側で斟酌しながら読むことになるのです。たとえば、

所以者餌也 (說苑)

この「得」は被動の相にありますので、「得らるる所以の者は餌なり」と訓ずることになります。詳述は避けますが、本居春庭の動詞の観念性の分類に於けます「自ずから然せらる」の類と考えればよいです。自動詞ではありますが、静止的なものと言えましょうか。動中の静であり、静中の状であります。堀重彰氏の言を引けば、「(被動の)自然は全く意志を押平め無為的とも言ふべき、状態となれる成行的な現象である」(『日本語の構造』一六一項)とあります。自然的他動に対すれば自然的自動とでも言うべきものです。ほとんど状態に傾きかけたところの動作です。「得」は「得的状態とあり」の意です。「捕まえられる」というよりは「捕まる」と看做すほうが文法的直訳に近いものです。被動の客体すなわち原動の主体は意識に漠然たるものであります。然せらるのではなく、然くあるのです。無論これは理論上の話で具体的にそれを示す標識があるというのではありません。依って以下の如き例文も文法上は二様に考え得べきものです。

反委質於智伯 (史記・刺客列傳)

「臣」は松下文法に所謂名詞性動詞(変態動詞)であります。この「臣」も「臣的状態としてある」の意か、「臣的状態とせらる」の意かは文法上外形上は判然としません。前者の如く考えれば「臣たり」となりますし、後者の如く考えれば「臣とせらる」となります。

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