学者頂門の一針

土曜日 , 19, 10月 2013 Leave a comment

王陽明、学者の鼻柱を打ち砕くの論。

洪與黃正之張叔謙汝中丙戌會試歸為先生道途中講學有信有不信先生曰你們拏一箇聖人去與人講學人見聖人來都怕走了如何講得行須做得箇愚夫愚婦方可與人講學 (傳習錄下)

「做得」は連辞的単詞(連辞的実質関係『改撰 標準日本文法』一六一項参照)の構造と看做します。これを「得做」とすれば連詞の構造(客体関係)となります。要しますに、実質的意義(この場合は「做」)を補充するのに、実質関係においてするのか、客体関係に於いてするのかの差があるのです。観念の構成の仕方が異なるのみで、出来上がった結果から見れば実質形式相伴う詞であることに変わりはありません。「做得箇愚夫愚婦」は「(自らを)箇の愚夫愚婦と做し得」の意。「做(作)」を自動詞(厳密に言えば自動詞的原辞)として読むも可。いづれにしても「箇愚夫愚婦」は「做得」の生産性に対する客語。「講得行」も連辞の単詞とす。

一箇聖人」と「」との関係も実質関係でありますが、こちらは連詞としての統合関係です。「去」の上語に対する関係は形式感動詞の上語に対する関係に同じです。この文の直前に「滿街人你是聖人」という句があるのでありますが、この「在」なども同じ用法と考えます。下線部の実質的意義に形式的意義を付加しておるのです。既に実質的意義は下線部だけで十分なのです。文言文法に所謂語気助詞もこの類です。「助詞」というのは「(上の語を)助ける詞」ということです。日本文法に言う「助詞」すなわち「てにをは」(助辞)の類ではないので注意してください。日本語で「書を読む」の「か」は動詞に密着しておりますが、漢文では「読乎・書」とせずに「書・」(実質関係)とするのです。ここからも「乎」(形式感動詞)が日本語の「か」(助辞)ではないことが分りましょう。もし漢文の「乎」が助辞であるならば「読」に直附しておらなければなりません。「素富貴行富貴」の如き「乎」は感動詞ではなく、形式動詞です。

「洪」「黃正之」「張叔謙」「汝中」は門人。「會試(試に会す)」は都で受験すること。

門人らが都への道中、先生(王陽明)の学問を講説したところ、信ずるものもあり信ぜぬものもあった。これを聞いて先生曰く、お前らは聖人の看板を引っ提げてまるで自らが新発明をなした聖人の如く振舞うから人々は皆びっくりして走り逃げたのである。そのようなやり方でどうして学問の講究が出来るか。人々と学問を講究せんと思うならば、田舎のじいさん、ばあさんの如くになりきらなければだめだ。

論語朱子註に程氏の言を引いて、

聖人之教人、俯就之若此、猶恐衆人以為高遠而不親也、聖人之道、必降而自卑、不如此則人不親

とあります。「聖人之教人」は漢文法鉄則でも扱いましたが、よく出てくる形なので覚えておきましょう。聖人が人々に道を教えるにあたり、なぜ自ら地に伏して就くのかと云えば、人々が聖人の道を高遠なものと考え、親しまないことを恐れるからであります。王子の「須做得箇愚夫愚婦(須らく箇の愚夫愚婦と做り得べし)」とは、程氏の「必降而自卑(必ず降って自ら卑くす)」とよく通じるものでありましょうか。

Please give us your valuable comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です