王陽明、著述を好まず(二)

水曜日 , 16, 10月 2013 Leave a comment

先に天下の大乱は虚文盛んにして実行衰うるに因るとありましたが、其れに続いて陸澄と王陽明との問答の一節であります。

問後世著述之多恐亦有亂正學先生曰人心天理渾然聖賢筆之書如寫真傳神不過示人以形狀大略使之因此而討求其真耳其精神意氣言笑動止固有所不能傳也後世著述是又將聖人所晝摹倣謄寫而妄自分析加增以逞其技其失真愈遠矣 (傳習錄上)

これもいつもと同じようにまづ書き写すわけでありますが、其のときに問いの部分と其れに対する答えの部分とを区別するよう心がけましょう。「問後世著述之多恐亦有亂正學」が問いの部分で、「先生曰」以下皆王子の言葉です。

「問後世著述之多恐亦有亂正學」から見てみましょう。「問」はここで一旦句読を切っても良いですし、または帰着語として読むも可であります。前者の場合は「問」は断句的修用語の帰着性従属的用法というもので、日本文法で言うところの第四活段の意義の実質化に当たるものです。「云へらく」「願はく」「見まく」等の如く「問ふらく」と実質化するのです。このとき「後世著述之多恐亦有亂正學」は模型動詞として叙述語となります。後者の場合は「後世著述之多恐亦有亂正學」を客語として「~問ふ」と読み下せばよいです。無論、客語が生産格的かどうかは判然としないわけでありますから、「~問ふ」としても間違いではありません。「問曰」などとあれば動詞の帰着性が生産性なることが明らかでありますから、客語もまた生産格的なることがはっきりするのです。このような細かいところは助辞の無い漢文に於いてはどうしても曖昧たるを免れないのです。結局「問ふ(または問ふらくは)、後世著述の多き、亦恐らくは正学を乱すこと有らん」、「後世著述の多き、亦恐らくは正学を乱すこと有らんと(または有らんことを)問ふ」などと読み下すことになります。

「著述之多」は上記では主体的連体関係として読み下しましたが、「著述之」を自然的他動である形式動詞「多」の客体の提示として看做せば「著述するをこれ多かる」などと読み下すことになります。どう読み下そうが文法的意義を把握できればそれでよいです。あとはそれに従って解釈をするのです。こういうと解釈よりも先に文法があるように聞こえますが、実際には解釈が先であることは他所でも既に述べたところです。大凡の解釈が定まっており、其の枠内で文法的分析を行っておるのです。もし解釈などに構わず純粋に文法的にのみ連詞関係を分析すれば「後世に問ひて之を著述するも、亦正学を乱すこと有るを恐るること多し」など如何様にも読めるものです(この場合の返り点は下図参照)。文法だけでは解釈を絞り込めないのです。注釈の夥しく出づる所以の一端であります。

文法上問題なくても、解釈上間違った返り点

文法上問題なくても、解釈上間違った返り点

次に王子の言葉を見ていきます。やや細かいですが「人心天理渾然」の「人心天理」の如き連詞関係を松下文法では「対等実質関係」と呼んでおります。所謂「対」です。実質関係の一種でして、「人心」にも「天理」にも実質的意義は備わっており、其の点では対等の関係でありますが、形式的意義に於いては「天理」にこそ自らの立場を決定する力があるとは云え、「人心」には無いのです。「人心」は下の「天理」の形式的意義に寄食しておるのみです。「天理」の側から言えば「天理」は自身に余る形式的意義を以って上の「人心」に供給しておるのです。その意味に於いて実質形式関係であるというのでありますが、尋常の実質関係と異なり形式語のほうにも上語に対等なる実質的意義があるため、対等実質関係と呼ぶのです。意味は「人心と天理とはもと渾然一体である」ということでありますが、「人心與天理(人心と天理と)」の如き連詞関係ではなく(この連詞関係については下図参照)、対等実質関係を以って表しておるのです。人心天理

少しく難しい説明でありましたが、これは敢えて此くの如き題目を取り上げたのでして、決してこれが分らなければ漢文が読めぬというわけではありません。そもそも簡単な項目ならば松下博士の『標準漢文法』を直接読むなり、拙著の如きものを参照せらるればそれにて已むのでありますから、ここでは敢えて特殊な問題を取り上げることが多くなるのです。

他に説明を要するところと云えば「不過示人以形狀大略使之因此而討求其真耳」の部分でありましょうか。所謂「不過~耳(~に過ぎざるのみ)」の句法であります。「使之」の「之」は「人」を指します。大体の構造を示せば以下の通りであります。

不過耳

上図を見れば明らかな通り、「不過示人以形狀大略使之因此而討求其真耳」は結局「不過A耳」の如き構造であるのみです。「A」の部分が分らなくても、「(聖賢の書と言うものは)Aに過ぎない」と云った程度のことは兎にも角にもまづ把握できなければならんのです。而して「A」の内部で説明を要するものと云えば「示人以形狀大略」でありまして、これは以下の如き文法構造であります。

示人以

「示人以」などを一つの動詞として看做せるかが肝腎です。一つの動詞といいましても無論「連辞」ではなく、連詞であります。連詞ではありますが出来た結果から見れば結局一つの動詞なのです。仮にこれを「X」とすれば「X形状大略(形状大略をXす)」となるのです。「X」の動詞たる、此くの如きであります。図に他動性とあるのは「以」がもと他動性の前置詞(以って)であるためです。前置詞の本性として持っている帰着性の一種である他動性は形式動詞(以ってす)になっても残っておるのです。その残っている他動性に対して「形状大略」は他動格的客語(要するに「ヲ格」)になっておるのです。訓むには「人に示すに形状大略を以ってす」などとしますが、直訳的に読むなら「示人(不定法動詞)、形状大略を以ってす」とでもするしかありません。「示人」は「以ってす」の「す」に実質的意義を補充する役割を負っているのみです。依って実質語(補充語)と呼びます。動詞「示人」と前置詞としての「以」とは直接関係が無いことを上図で確認しておいてください。「以形状大略示人」と意義は同じ。ただ概念の新旧に関して差あるのみ。すなわち前者は「形状大略」を新概念とし、後者は「人」を新概念とするの差があるのです。其の差異を明らかにせんために意訳すれば、「形状大略を以って誰に示すかと云えば人に示す(以形状大略示人)」、「人に示すに何を以ってするかと云えば形状大略を以ってす(示人以形状大略)」などとなります。

「其精神意氣言笑動止固有所不能傳也後世著述是又將聖人所晝摹倣謄寫而妄自分析加增以逞其技其失真愈遠矣」の部分を意味のまとまりごとに区切れば以下のようになります。

其精神意氣言笑動止、固有所不能傳也、後世著述是又將聖人所晝摹倣謄寫、而妄自分析加增以逞其技、其失真愈遠矣

「將」は「以」に同じ。「摹倣」は模倣。「其失真」は漢文法鉄則参照。特に文法的に難しいところもありませんので、あとは皆様の研究に任せます。

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