杜甫の『国破れて山河在り』の詩に就き、司馬温公の婉曲の説き方がわかりやすいのでそれをまず見てましょう。

古人為詩、貴於意在言外、使人思而得之、故言之者無罪、聞之者足以戒也、近世詩人、惟杜子美最得詩人之體、如國破山河在、城春草木深、感時花濺淚、恨別鳥驚心、山河在、明無餘物矣、草木深、明無人矣、花鳥平時可娛之物、見之而泣、聞之而悲、則時可知矣、他皆類此、不可遍舉

昔の人の作詩は意を言外に述べる。直言せぬ。読むものをして自然とさとらせるのである。よって言うものは決して罪せられず、読むものは自ら誦して戒めとすることが出来る。近世の詩人で言えば杜甫こそ此の呼吸を得ておると言える。春望の詩にはただ山河は在りというのみ。然るにこれにて他に何物も無いことを明らかにしておる。次に草木は深しという。ただそれだけで賊に破られたる都城に人の姿のないことを表す。本来平時なれば見て楽しむべき花なるも、いまこれを見ては泣く。時に感じて花には涙を注ぐ。この一句にて今がどういう時なるかを知らしむ。いずれも戦火のありさまをば直接的に叙述しておらぬ。それでいて読むものをして時世の如何なるやを覚らす。他みなこの例を以て推して知るべし!、と。

参考に夜航詩話に於ける婉曲論を載す。

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最後生憎切れてしまってますが、補えば然して士大夫をして必ず読み解す能はざらしむれば亦何の故ぞや、となります。要しますに徒に難渋な語を連ねて誰にも分ったような分からぬようなものを作るのが貴いのではない。意味が分からないのでは作詩になんの意味がありましょう。しかしだからと言って思うところを直接的に言ったのではよろしくない。言わぬ。が、しかし思わすのです。

いやいや、それにしましても肉体労働者泣かせの時期になりましたな。体力の消耗が激しい。そういうときに元請けさんに暑くてすぐくたびれますなーなどと言ってはいけない。これは直接的すぎる。水分補給が追いつきませんわ。これでよい・・・・・・。

なかなか自分の勉強が捗らずにおりましたが、松下文法の勉強を今年元日より再開致しました。こうして皆様の前に公言するのもやるしかない状況を作らんとするためです。今更ではありますがtwitter(@kanbunpo)も始めました。よろしかったらフォローしてやってください。

吳康齋曰心是活物涵養不熟不免搖動只常常安頓在書上庶不為外物所勝安頓二字大有害儒者不徹性命大率繇此於搖動處正好下工夫尋向上去也

人それぞれ支那の古典を読む動機は様々でありましょうが、私の場合は、修養なり修己なりへの興味からでして、今朝もたまたま高子遺書を披いたところ左の如き一節が目に入りました。こういうところに私の興味といいますか、よく錬心したいと願っておる目当てがあるのでしょう。「安頓二字大有害」とあります。書物の上でいくら研究しても真の格物とはならぬ。そうではなくて「於搖動處正好下工夫尋向上去」(搖動するところに於いて正に好く工夫を下し尋いで向上しされ)と。心がハッと動くところ、そここそ勉強の為所だというのです。自分の意に反して心が動くのはあまり気持ちのいいものではありませんが、そういうところこそ勉強工夫してよく用心しろというのです。この言葉を服膺しつつ、また明日から仕事ですかな。

昭和の英語学者 田中菊雄氏の『英語学習法』に以下の如きことが記されてありまして、また我々の勉強を鞭撻するところもあらんと思いますのでここに引用しておきます。

尚「虎の巻」のことについて或る高校生で英語の秀才が嘗て余(田中菊雄)に次の如き体験を語った。   「私の中学時代の英語は実に虎の巻のお蔭である。その虎の巻はなかなかよく出来ていて、学校の先生の講義よりも虎の巻のほうが却ってよかった。訳文にしても註解にしても遥かに明瞭にわかるのである。また学校では教科書が随分残るのが常である。教師依存の人はそれなりであるが、私は虎の巻のお蔭でそれらも十分に補った。「一体」と彼はさらに続けて言う。「一体、地方の中学で一里二里の道を通学してくる、英語に関しては頼りとなるべき父兄も友もない中学生の大部分は、学校における一時間の授業は概ね煙に巻かれて帰ってくるのである。教師の説明がよくわからず、甚だしきはまるで間違って覚えてくることも少なくない。また時には病気や家事で欠席することもある。その補いは何によってつけるのか。虎の巻に依らざるを得ないのである。私はむしろよき虎の巻の出でんことを希望するものである。そして教師がむしろこれが使用を公認し、積極的にこれが使用法を指導し、以て教壇の延長を計ることこそ賢明なのではないかと思う。云々」   これに対する余の答えは次の如くである。   一体電車とか自転車とかいうものは誠に便利である。しかしながらマラソン競争の練習をするのに電車や自転車を利用して果たして効果があるかどうか?今後ますます虎の巻が続々出てくるかも知れぬ。しかしながら真に学力を身に着けようとするものは、これに対して一顧をも与えぬことマラソン走者の電車、自転車に対すると同一でなければならぬ。上記の秀才が虎の巻によって力をつけたといっているのは、決して虎の巻の故ではないのだ。実は彼自身が偉かったのだ。彼自身のその自主的、積極的、旺盛溌剌たる意力は虎の巻の如き鈍力を以てすらもある程度の優秀な成績を挙げ得しめたのだというに過ぎない。彼に与うるに虎の巻の代わりに真に優秀な辞典と権威ある参考書とを以てするとしたならば必ずやさらに大いなる力を発揮し得たに相違ないのである。若しそれ、彼以下の意力の弱いものに至っては、足を奪われているのだと知りつつも、つい便利にまかせて自転車や電車を利用すると同様に、一度虎の巻の味を覚えると、辞書を引いたり、頭を働かして考えたり、参考書を調べたりする労力が馬鹿馬鹿しくなってくるのが人情である。諸君は一時の困難を憤然撃破するだけの意力を持たねばならぬ。「捨て身になって辞書を引く」これ以外に語学上達の秘訣は絶対にない。若しありと囁くものあらば諸君は断乎として「悪魔よ退け」と叫ぶべきである。  

『英語学習法』(十項、昭和十三年刊)

よき教師がいない、よき参考書がないなどと叫んでおる軽薄な学生に対するよき訓戒でありましょう。よき教師もよき参考書もあるに越したことはありませんが、もっとも必要なものは立志の二文字のみでありましょう。「志」なきこともっとも患へて可なりであります。 学習法

天気予報にて、大雪のため不用意な外出を控えろと言ってありましたが、これを漢訳してみましょう。

まづ文の構造を大きく分析すれば、「控 + 不用意な外出」となります。即ち「V+O」であります。よって、

控不用意外出

となります。これだけであります。然るにこれを読み下して、「意を外出に用ひざるを控ふ」とするも可でありますが、これは「用」と「外出」との連詞関係を客体関係とするか、連体関係と看做すかの問題であり、解釈を待って始めて定まるものです。

「為~所~」は一般に「~の~する所となる」と訓まれまして、被動(受身)を表すものであります。たとえば「富豪為悪人所殺」とあれば、「富豪、悪人の殺すところと為る」と訓み、「富豪が悪人に殺される」の意となります。松下博士もそう解説しておられる。しかしこの「為」は去声に読まれるもので実は動詞「ナル」ではなく、前置詞「タメ」であります。このことについて確か岡井慎吾氏であったと思いますが、松下理論中の僅かな瑕疵に過ぎぬといったようなことをおっしゃておりまして、私としても如何にもそうであろうと思う。然して、この「為」を前置詞と考えたところが松下文法の説明とは決して矛盾しない。たとえば、

時輩見推許 (韓愈)

この「所」は単性化したものとして、上語を受けた「ソレニ」くらいの意義として解せば、「実に時輩の為に(ソレニ)推許せらる」とでも訓ずればよいと思う。「ソレニ」は心の中で読めばよい。誰に推許せられたか、其の被動の客体を副詞的(名詞ではないのに注意)に再示し表しておるのです。

累於世 (韓愈)

一見被動の客体が「所」の下にある様に見える。無論、「世に煩わされる」の意かもしれない。しかしこれも上の原則で「所」が漠然と被動の客体を副詞的に表し、「アレヤコレヤに煩わされるなんてことをこの世に於いてすることはない」の意かも知れぬ。「世」が被動の客体か、単に場所を表す(*)のかは判然としないように思う。また「所」をほとんど動詞性を表すだけの前加成分と考えるも無論可であります。

(*)「於+名詞」の「名詞」が単に動作の場所を表す例

  • 孫子臏腳於魏 (韓非子・難言)
  • 司馬子期死而浮於江 (韓非子・難言)

孫子の足を不具にしたのではなく、魏足を不具にさせられたのです。長江司馬子期の死体を浮かべたのではなく、死体が浮かべられることを長江於いてしたのです。読み下すには「魏に脚を臏せらる」、「江に浮かべらる」としますが、「魏」も「江」も被動の客体ではなく、動作の行われた場所を表しておるのみです。

ちょっと余談になりますが、

事物是非相感發 (韓愈)

の「相感發」はもちろん動詞でありますが、「相感發的状態と(あり)」の如く考えるとよいように思う。此れは私の個人的な案であり、松下博士はそのようなことをおっしゃてはおりませんが、そう考えるとよく辻褄が合う。後に三矢博士の『高等日本文法』の付録に私の考えたのとほぼ同様の案を「日本文法の解剖に当たって非常によく切れる刀」の如く評されておるのを知り手舞い足踏むを忘れるの喜びでありましたが、実際この考え方は日本文法だけでなく漢文法を解剖するのにも非常に役立つ。即ち「事物の是非に(依拠して)相感發的状態とあり」の如く解すのです。『標準漢文法』(一八〇項)に、

生産性動詞の生産性に対する客語は皆其の生産物を表すものである。そういふと名詞の様に聞こえるが、模型動詞であって名詞でない。事物としての生産物を表すのでなく一種の作用としての生産物を表すのである。

とあります。松下博士は「彼が大将となる」の「大将と」をも名詞性動詞と言っておりますから、やはりどこまでも生産性(一致性に同じ。一致性のなかに特に生産性の目を立つるのみ)に対する客語は動詞であるという考え方でゆくのです。依って「或事物是非相感發」を仮に「或事物是非相感發」とした場合も、「事物の是非の相感發するところと為る」と解すも可でありますが、直訳的に「事物の是非に(依拠して)相感發する的状態とあり」の如く解するのがよい。「為物傾側」も「物に傾側的状態とあり」の意であり、「為戮於楚」も「戮的状態とあること楚に於いてす」の如く考えるのです。「~的状態」とは客語の本体が動詞であろうが名詞であろうがそれを形容性動詞にしてしまおうというのです。名詞ならば外延で以って内包が覆われておるから其の外延を外した状態にするのです。動詞ならばそこから時間の概念を外した状態にするのです。これは思惟の問題でありますから、ただ理屈の上でそういう作業をしていただければよい。

古人曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず(書不盡言、言不盡意)」、「知る所を竭盡(つく)して、愛(おし)むことあるを為さず(竭盡所知、不為有愛)」と。もとより私には出し惜しみするほどのものはないとは雖も、なかなか意を尽くしがたい。このことについてはまた日を改めて述べるところがありましょう。

前記事

ネットでいくつかの記事を見ましたところ、問二の問題の解説でこういうものが多いようです。即ち「清嗜」を「動詞」の形であるから、「Vするに~を以ってす」と読む故に答えは云々である、と。しかしこれは本末顛倒の説明だろうと思う。そもそもまづ何を以って「目」を動詞とするか、実際選択肢には「目」を名詞として訳読してあるものもある。普通の人は長かろうが短いものであろうがうまければ構わず食べるが、風流人は違う、長いのは食わぬ、なぜなら「目以清嗜」である、の如き意に私は解しておりますが、この場合、例えば「(風流人とても口に甘きを嗜むのはもとよりであるが)目には風雅を嗜む、依って長いのは取らず」と解せば、「目以清嗜、不靳方長」を読み下して「目、清を以って嗜み、方に長ずるを靳らず」などとすることになります。はたまた風流人は目をば以って清く嗜むというならば、「目以って清嗜す」とでも訓むことになります(*)。要しますに「目」が動詞であるかどうかは解釈に由るのです。「もくす」と訓むから動詞なのではなく、動詞と解釈するから「もくす」と訓むことになるのです。「以」が上語に属せしめられるのか、下語に掛かるのかは解釈によるのです。解釈なしに直ちに「目するに清嗜を以ってす」と読めるものではないのです。無論、実際読書するときには直感で判断されましょうが、人に説明する場合には、こう解釈したからこういう品詞として読むのだ、という仕方でなければ納得してもらえないのではないかと思う。

(*)「目以清嗜」を「目以って清嗜す」と読み下すことは文法上可能なのか疑問でありましょうが、これは間接客体の提示と謂うもので、

  • 衣食於奔走 (韓愈・與陳給事書)
  • 目以處義、足以踐德 (國語)

の如きと同じです。松本洪先生の『漢文を読む人のために』(四〇九項)という書で、この「衣食於奔走」を「奔走することによって生活してゆく」と言う意に解して「奔走に衣食す」と読んだ者があったということが書かれてありますが、一般には「衣食に奔走す」と訓まれるものであります。即ち本来「於衣食奔走」とあるべき前置詞「於」の客語が上に飛び出したのです。

また「目以清嗜、不靳方長」の解釈自体についてでありますが、これを「風流な人は美しい竹林を嗜好するから、長くなった竹は取らぬ」と解しておるものもあります。或はそうかも知れぬ。ただ其の場合は下の「故」という語とうまく繋がらないように私には思われるが、ちょっとわからない。しかし「故」を「乃」の意に解せば通る。即ち「風流人は清雅を好み美しい竹林を愛するため、ちょうど成長した竹は鑑賞にのこしておく、しかし、一旦うまいと分れば、主人の愛護する庭園と雖も長短構わずに取ってしまう」と。風雅を愛する者と雖も結局甘を貴ぶという思想は、本文の甘いものは取られ苦い者は捨て置かれるという一貫した趣旨に合致するもののようであります。

  • 「幸」の一字について一考

問題文の最後の方に「亦知取者之不幸而偶幸於棄者」とあります。直訳的に「亦た取者の不幸にして棄者に偶幸あるを知る」とでも訓んでおきますが、「幸」字は説文に「吉にして凶を免る」とあり、また論語皇疏に「凡そ応(まさ)に死すべくして生きるを幸と曰ふ、応に生くべくして死するを不幸と曰ふ」とあります通り、本来義のため自然淘汰のためなりで、死ななければならないところを、諸々の事情で運よく生きながらえるものを幸といい、本来長く生きて後生を指導すべきであるも諸々の事情で死んでしまうものを不幸というのでありまして、今我々が使う幸不幸とはちょっと違う。「取者之不幸」は「不」の字を以って「幸」を打ち消しておる。吉にして凶を免れる、運よく助かる、そんなことは無いといっておるのです。山に隠れようが、家に引きこもろうが必ず取られる。才能あるものの運命であります。然るに「偶幸於棄者」は「偶」の字を以って「幸」を修飾しておる。何の役立たずでも、たまたま運よく助かる、寿命を全うする、そういうこともあるというのです。無能であるから生存競争を勝ち抜けないはずであるが、却って面倒に巻き込まれず無難に一生を終えることもある、そんなところでありましょうか。単純に取られるものにも不幸な場合があり、棄てられるものにも幸福な場合があると解するよりも、一層味わいがあると思う。

ただこの場合、荘子の所謂無用の者が却って大用を為すなどと言う類とは似ても似つかぬことになりそうであります。依って「豈」も反転として解すことになる。即ち「どうして無用の者が大用を為すという荘子の説の如きであろうか、有用の者は取られるがそれだけの用を為す、然るに無用のタケノコは所詮無用である、徒に長生きするだけで何の用も為さぬ」と。

渋沢翁もおっしゃっておりますように、やはり読書ばかりが勉強じゃない。タケノコを掘り、料理し、食らう、これも勉強であります。この経験が無い私にはタケノコの例がよくわからない。

また今回久しぶりに試験問題などというものを解いてみて思ったことは、読書とは試験問題を読むが如く真剣でなければならぬということでありましょうか。眼光紙背に徹し文章を覚えるくらいに何度も読む、そうでなければならぬ。日ごろ私自身は文法学習を主とし、ややもすれば漢文を其の材料くらいにしか考えておらぬときが間々ある。文法解説の為に都合の良い例文はないか、そんな観点から古書を見てしまっておる。漢文を読む時間より文法書を読んでおる時間のほうが長い。漢文を独力で読むことを目標にしておる以上、漢文を主としなければならない。漢文学が体であり、文法は用である、漢文を筋骨として後、文法が血肉と生ず。そんな基本的なことを改めて反省させられたセンター漢文でありました。

以下問題文です。なかなか難しい。間違いあればご指摘お願いいたします。

センター2014漢文1 センター2014漢文2 センター2014漢文3 センター2014漢文4 センター2014漢文5 センター2014漢文6 センター2014漢文7 センター2014漢文8 センター2014漢文9

  • 問一

「尚」は「タットブ」と訓ず。

  • 問二

「好事者、目以清嗜、不靳方長」の返り点と読み下しを問うものであります。「靳」の訓み方は選択肢を見れば分る。どれも「とる」の義として訓んであります。問題は「方」と「長」でありますが、選択肢を見ると、「方」については「まさに」と「ならぶ」、「長」については「長ず」と「長し」の場合があり得る。「目以清嗜」はちょっと文法的には難しい。松下文法ではこの「以」を前置詞性単純形式動詞と分類し、「目」と「以」との関係を実質関係の連詞とする。これは何を問う問題なのかちょっと分りませんが、「長きに方(なら)ぶ」と読みますと意を為し難いとは言えましょう。長いのは伐らないと言いたいのならば、「方(まさ)に長ずるを靳らず」と訓ずるに及ばないと思う。「目以清嗜」は風流人なので長いのは伐らないが、見た目に悪くない小さいものをば嗜むということでありましょうか。そう考えますと、「故雖園林豐美、複垣重扃、主人居嘗愛護、及其甘於食之也、剪伐不顧」とは、見目よい小さな筍とあらば主人がどれほどその美しい庭園を大切にしておろうとも、構わず伐りとってしまうというのでしょう。しかし好事者も苦いものは食べないと見えて「獨其味苦而不入食品者筍常全(独り其の味苦くして食品に入らざるものの筍は常に全し)」とある。とにかく答えは5。この文章はとにかく良いものは土中に埋まっていようが取られてしまい、反対に悪いものはさかりであろうと誰にも取られず其の生を全うするという趣旨で一貫しておるのです。

  • 問三

「不収者必棄於(Ⅰ)者也(Ⅱ)者至取之」の「而」や其の後の「(Ⅲ)者近自戕(Ⅳ)者」の「而」が「しかるに」と訓むことは送り仮名からはっきりしておるわけでありますから、それぞれのどちらかが分ればもう一方も分るというわけです。この時点で選択肢の3、5、は消える。なぜならば、(Ⅰ)と(Ⅱ)とが同じであるからです。

しかしまだ選択肢は三つ残っておるわけでありますから、どう絞り込むか。まづ(Ⅰ)と(Ⅱ)とでありますが、人から収めれらずに棄てられる者は何かと考えるのです。反対に取られてしまう者は何かと考えるのです。この「取」は先に見た「靳」と同じであります。人に取られず捨て置かれるのは「苦」い筍であり、「甘」い筍なれば取られる。依って(Ⅰ)に「苦」が入り、(Ⅱ)に「甘」が入る。

次に(Ⅲ)(Ⅳ)を見ます。(Ⅳ)が簡単でありましょうか。「(Ⅳ)者雖棄猶免於剪伐」とある。この「猶免於剪伐」の解釈が更に問四の問題を兼ねておりますが、なんと言うことはない。「(Ⅳ)は棄てらると雖も」の部分が読めれば、棄てられるのは「苦」い筍である、と分る。「甘」なれば取られてしまう。依って(Ⅲ)に「甘」を入れ、(Ⅳ)に「苦」を入れればよい。「甘者近自戕」とはうまいために却ってその身を滅ぼすこと。答えは1、となる

  • 問四

「猶免於剪伐」の解釈の問題であります。「免」は「まぬかれる」の意でありますから、切られるのか、切られないのかで言えば切られないのであります。そうすると2、4、は消える。1はこう解釈するにはちょっと厳しい、「きっと~にちがいない」とは解せない。しかし3、は文法上そう読めなくもありませんが原文に返り点がありますからここでは「猶」が副詞でないことが分る。仮に副詞として「猶ほ剪伐に免る」と読み下し「苦い筍は捨て置かれると雖も、それでもまだ切り取られることは免れている」の如く解すれば解釈上も問題なくなる。兎にも角にも問題としてはこの「猶」は「如」に同じであります。3、が副詞として解してあるのに対し、動詞であります。「苦」い筍は捨て置かれるが、それは剪伐を免れるのに同じである、というのです。「如」は単に「の如し」と読み下しますが、「猶」は「猶ほ~のごとし」と訓む慣わしです。

  • 問五

理屈だけで申せばどの選択肢も絶対に間違いとは言えない。読み下しは一種の直訳であると雖も、直訳に馴染まぬ場合は翻訳することになる。「肉食者」は「食肉者」と語順は異なるが、「肉もて食らふ」と訓んだのでは日本語として分り難いので解釈上「肉を食らふ者」と読むことになるのに同理であります。依って文法のみでは解決できない。まづ解釈を立てるに如くはない。其の前の部分に「物はなんでも甘を尊ぶ、故に苦は顧みられず全きを得」とある。ここから「甘」は「貴」に、「賎」は「苦」に対応しておることを看取せば、「世莫不貴取賎棄也」は「世に於いては何でも貴いものが取り尽くされ、賎しいものが棄ておかれるものである」の如き意であろうと分かる。2、4、は禁止の意にとっておるから消える。5、は「不」の掛け方を誤っておる。「不」は「棄」まで掛る。無論、これは解釈から判断できることです。1、も解釈が文脈に合わない為消える。文法だけで言えばこの訓じ方も当然問題ない。

また「世莫不貴取賎棄也」を仕官のことに擬えて、世間では皆用いられることばかり尊び、捨て置かれることをいやしむ、の如く解してもよいが、その場合は「世に取らるるを貴び、棄てらるるを賤しまざるもの莫し」となる。

「貴取」「賎棄」はそれぞれ「S+V」の如く考えてよい。しかしなぜ「S+V」の上に「不」が来ておるのか。実はこれ「不亦君子乎」の「君子」の如く「貴取賎棄」が叙述性(山田文法に所謂陳述)を含んであるのです。「君子」が「君子なり」であるように、この「貴取賎棄」も「貴取賎棄なり」であります。以下の如きも同然。

是不亦責於人者已詳乎 (韓愈・原毀)

是不亦排之者未必得其道乎 (藤田東湖・弘道館記述義)

  • 問六

「オ」以降、話が物類一般に及ぶため、オがひとまづ一段落となることは分かる。そうしますと後はアからエまでのどこを以って二つに区切るかと言うことになります。アは筍が取られ調理される段で、イウエ皆甘苦の筍の顛末、結局アとエとで三等分することになる。

  • 問七

「豈荘子所謂以無用為用者比耶」の読み下しと解釈を問うものであります。「豈」は思惟の反省を表す記号でありますから、まづこれが反語か強意の疑問に留まるかをを判断します。どうやるか、文脈から判断するしかない。舟を作るにも直ぐ沈み、棺おけを作るも直ぐ腐り、柱にしても直ぐ虫がわく、そんな木は誰にも用いられずに樹齢を伸ばすが、却って大用を為す。其れと同じく、筍も苦ければ取られぬ、使いようの無いものだからその生を全うする。これぞ荘子の所謂無用の用なるものでないか、確かにそうである、というのです。この解釈あって後、「豈荘子所謂以無用為用者比耶」の句が反転せず、強意の疑問であることが知れるのです。ただこの解釈をするのに「無用の用」くらいは知っておかなければならない。然るにこの問題はそんなことではなく、単に句形の知識を問うたものかも知れない。即ち「以~為」が「~を以って~と為す」であることを知っておれば5、がすぐに択べる。

ちょっと文法的なことを言いますと、「荘子所謂以無用為用者」の全体が名詞です。直訳的に読めば「荘子のソレヲ無用を以って用と為すと謂うところの者(=ソレ)」であります。次に「比」の訓でありますが、選択肢を見ると「たとふ」「くらぶ」「たぐひ」となっておりまして、動詞か名詞かの違いはありますが要するにA(貴取賎棄)をB(荘子所謂以無用為用者)に相対せしめるという本質的な点に於いて差はない。依って「荘子所謂以無用為用者」と「比」との関係を修用関係(*)と看做そうが、連体関係として看做そうが、それは読者次第であります。すなわち動詞として「豈に荘子の所謂無用を以って用と為す者に比せんや」と訓もうが、名詞として「豈に荘子の所謂無用を以って用と為す者の比ならんや」と訓もうが、どちらでも大差ない。

(*)客体的提示語の修用関係 (例) 何必公山氏之也 (論語)

「之」は形式名詞で有っても無くてもよい。上語を再示しておるのみ。

1、の選択肢は反語でありますから駄目です。AをBに比することができるか、いや出来ない、としてしまっておるのです。

2、は一見よさそうであります。AはBに比することができると言うておる。しかし後半が駄目であります。「取られて不運な境遇に陥ることあり、棄てられては其の生を全うするあり(取者之不幸而偶幸於棄者)」とはありますが、役に立たないことを自覚してこそ世の役に立つとは書いてない。「苦者雖棄猶免於剪伐」、「苦者得全」とある如く、積極的に用を為すとは言ってないのです。ただ苦かったため運よく取られずに済んでおるばかりです。

3、は「荘子の考え方に反論している」とあるから駄目。A≠BではなくA=Bとある内容でなければならんのです。この「豈」は反転を表しておるわけではないのです。

4、もAとBとの不一致を述べてあるから駄目。ということで答えは5、であります。

5、は用なければこそ天寿を全うするとあるのみで、2、のように積極的に役に立つというのとは異なる。甘い筍は取られると雖も人の食に供せられ役に立っておる、反対に苦い筍は取られずに其の一生を全うすると雖も、誰の役にも立っておらないことに注意。さらに言えば、より甘いタケノコがあるためにより苦いタケノコが取られずに助かっておるのでありまして、うまいタケノコが不足し始めれば、苦いタケノコも無事では済まない。


【追記】

センター漢文 追記

たとえば、「嘗て登った山」「冬の山」と言ったときの「山」は自ら単独に考えられる具備した全き概念を表しておる。即ち、「嘗て登った」「冬の」などと言う語が無くても不足はない。ただ詳しくなくなるだけであります。このような「嘗て登った」「冬の」を修飾的連体語といいます。またこのような「山」を絶対態にある名詞といいます。要するに不足がない、他物に関係せずそれだけで考えられるものです。英語などの名詞は反対に単独に考えては意義が具備しない相対態にあることが多いため、ほぼ必ず冠詞なりを附けなければ絶対態にならない。

なぜこんなことを申したかといいますと、とあるブログで「食其所愛之肉」の「所」の特殊な用法について述べておられるのを読んだからであります。この「所」ついては加地伸行氏の『漢文法基礎』でも触れられておりまして、私も嘗て読んだときにはこんな用法の「所」もあるものかと思った。といいますのも、この「食其所愛之肉」は「其の愛するところの肉を食らふ」と訓むのでありますが、普通に考えれば大好物である肉を食うの意の如く思われますが、ここでは「自分が愛する妻妾の肉を食う」の意であるというのです。

私はこれについて「食其所愛之肉(其の愛するところの者の肉を食らふ)」の如く考えれば何の変哲も無い、いつもの「所」の用法になる、この「其所愛」は一種の修辞的な用法であろう、くらいに考えておりましたが、今考え直してみますと、これは「所」が特別なのではなく、実は「肉」が特殊な用法、そういえば大げさでありますが、兎も角も相対態にある名詞と考えるべきものではないかと思うのです。「肉をくれ」と云えば「何の肉だ」となる。「肉」だけでは全き概念ではないのです。我々が「肉」を考えるときには、必ず其の相対性の基準たる概念とともに心に観念される。ただここで相対態というのをあまり厳密に考えてはなりません。如何なる事物の概念と雖も突詰めれば相対的ならざるものはない。「山」や「花」が絶対態の名詞で、どうして「肉」が相対態なのかということをあまりに突詰め、概念自身を分析的に考えてはならんということです。そうではなく、我々が事物の概念をどう扱うかという扱い方の方面から極常識的に考えるのです。英語で「book」が相対名詞であるからと言って、日本語の「本」も相対名詞であるというわけではないのです。ある事物を本性として他物に対して考える場合の、其の事物を指して相対名詞と謂うのです。「犬」はそれだけで具備した概念であります。しかし「右」はそれだけでは考えられない。「左」に対して「右」であります。「肉」はそれだけで考えられそうでありますが、動物と肉との結びつきが強ければ、単独で具備した概念とは言えない。そこで動物に対して相対的と考えるのです。

「我所愛之肉(我が愛するところの肉)」と「我所愛之蓮花(我が愛するところの蓮花)」とは連詞関係こそ同じであれ、其の實、補充と修飾との区別が存しておるのです。どちらも形式は同じでも、前者は単に「肉」と言ったのでは全概念とならない。半概念であります。然るに「蓮花」はこれにて全概念となっておる。依って前者の連体語をば補充的または相対的連体語といい、後者の連体語を修飾的連体語と謂うのです。説文の「肉」字の段氏注に「生民の初め、鳥獣の肉を食らふ(生民之初、食鳥獣之肉)」とありますが、この「鳥獣之」もまた相対的連体語であります。「肉」を性質として「鳥獣」に対して相対的に考えておるのです。故に相対名詞と謂うのです。「死体の山」と云えばこの「山」は相対態名詞でありまして、山が死体から成り立つ、死体が積まれて山の如き状態にあるという意であります。「嘗て登った山」も「冬の山」も修飾語を欠いたとて説明が詳しくなくなるだけですが、「死体の山」は違う。「死体の」と言わねば「山」の質を表せない。何となればこの「山」は性質として「死体」に対して相対的に考えられておるからであります。「死体の山」は「死体の山としてあるもの」であります。「山」としてあるという性質は「死体」無しには考えられない。基準となる事物あって後、其の性質が考えられるのです。「子を下さい」では分らない。「犬の子を下さい」と云えば、「子」の相対性の基準たる概念が補充されて初めて全き概念となるのです。「鶏の卵」の「卵」は「鶏の卵としてあるもの」の如く、「卵」は「鶏」に対して性質として相対的であるのです。「鶏」があって後、「卵としてある」ことが考えられる。「父の財産」と云えば、この「財産」は「父」に対して所有物としてやはり相対的であります。所有者である「父」あって後、其の所有物が考えられる。修飾と補充とに外形上の標識なくとも、区別の存し得べきことこれで了解されたと思います。これが相対態の意味です。

『標準漢文法』(五六九項)に、

連体的従属に於いては補充的従属であるべきものをも修飾的従属としての形式に於いて従属するから、連体的従属は全部修飾的従属として取り扱はれる。

とありますが、これは上述の如きを指しては言うのです。

「食其所愛之肉」は、単に「肉」を食うと言ったのでは全概念とならない。「其所愛之」は「肉」の相対性の基準たる概念を以って補充しておるのです。然るに、

読我所愛之書 (我が愛するところの書を読む)

の「書」は絶対態の名詞であります。この「書」は事物に対して相対的に考えられておるものではない。「我所愛之」は「書」に対する修飾的連体語であります。依って此れをも我が愛するところの、例えば妻妾などの書を指すのであるなどと云えば、それはちょっと無理があろうと思う。少なくとも修辞的な要求のない限りそういう書き方はしないほうがよい。其の訳はこれを然く考えるためには「我所愛之」が相対的連体語でなければならない。而して其れが相対的連体語であるためには被連体語である「書」が相対態にあるものと考えなければならないのです。然るに「書」は本性のままに用いれば絶対態であり、また「我所愛之」が与える印象は少なくとも形式上修飾的であるからであります。依って是くの如きは素直に「私が愛読する書」の意に解すべきであろうと思う。

結論(仮説):

「甲」 + 「所」 + 「乙」 + (之) + 名詞 (甲の乙するところの名詞)

上式の如く「甲+所+乙」が連体語としてある場合は、被連体語である名詞が明確な相対名詞、たとえば「上」「下」「全部」「一部」の如きでない限り、まづ修飾的連体語として考えるべし。西田太一郎氏の『漢文の語法』(一五九項)を見ますと「食其所愛之肉」の例とともに、

天所崇之子孫、或在畎畝 (周語)

の例文が挙げられております。たった一例のみではなんとも言えませんが、確かにこの「子孫」は相対名詞であります。「天所崇之」は「我の」「其の」「父の」などの相対態被連体語に於ける関係と同じであります。「我の父」と云えば、「我」と「父」とは異なる者であるように、「天所崇之子孫」と云えば「天所崇」と「子孫」とは異なる者であることに注意してください。単に「子孫」の中には落ちぶれた者がある、と言ったのでは分らない。「なんの子孫」だとなる。「嘗て天が其の身分を高くした子孫」であります。修飾ではなく補充であります。補充とは修飾の如く説明を詳しくするのでなく、足りない者を新たに加えるのです。被連体語に欠けておる者を補うのでありますから、連体語と被連体語とは二つで一つでなのです。

因みに言う、某ブログでは「其所愛之肉」の「其所愛」だけでは具体的にこれが何を指すか分らない、「花子」かも知れないし、「牛丼」かも知れない、と述べてある。それはもちろん其の通りであります。しかし、「肉」と云えば絶対態でない限りは「何の肉」と言わずしては全概念とはならないのでありますから、ここに於いて「其所愛」は少なくとも「肉」とは異なる「何か愛するところの者」とならざるを得ないものと思う。それが「妻妾」を指すといいますのは文脈から言えることであり文法上は「肉」以外の何かとしか言えない。「肉」を考えるに其の相対性の基準たるべき何かであります。「妻妾之肉」と云えば直接的で憚られる為「其所愛之肉」とはするのです。


無論これらは詞の本性を述べたまでで、其の運用に至っては絶対態名詞の相対態化することあり、相対態名詞の絶対態化することあるは言を俟たざるところであります。

 

(追記)相対名詞について

「犬の牝」と「牝の犬」との違いに注意していただきたい。前者は相対的連体関係で、後者は修飾的連体関係であります。「犬」は「牝」ということに相対せしめずとも考えられる。絶対名詞であります。「牝」という概念無しに「犬」は考えられるのです。「牝の犬」の「牝の」は「犬」の所属を表すと雖も、それは犬に固より含まれる内包を引き出し以って修飾しておるばかりであります。補充ではない。犬の性質を詳しく明確にしておるのみです。然るに「犬の牝」の「犬の」は「牝」という性質の基準であります。性質は事物より派生するものでありますから、事物が体であります。体なしに用は考えられない。「犬の」は「「牝」の相対性の基準たる概念を欲するという形式的空虚に対する補充であります。最近見たテレビコマーシャルで彦麻呂さんでしたか、彼が肉を食べ評して「肉のヨガ教室だ」というのがあったのですが、「ヨガ教室」はもちろん本性として絶対名詞であります。しかし、ここの「ヨガ教室」は違う。この「ヨガ教室」は肉の性質として「肉」に対して相対的に考えられておるのです。「ヨガ教室」は「やわらかくあるもの」の如き肉の性質を表すのであり、性質として肉に対して相対的であること、「死体の山」の「山」と同じなのです。

相対名詞


【参考】

漢文は上から下に読むもの』(修飾と補充との違いを扱ってある)

まづ此の「酒は飲んでも、飲まれるな」を漢訳する前に、文語文に書き直してしまいましょう。例えば「人酒を飲むなり、酒人を飲むに非ざるなり」とする。あとは此れをそのまま復文(漢す)だけです。即ち、

人飲酒也、非酒飲人也

これで完成であります。「酒非飲人」としますと、酒は人を飲むものでないの意となってしまいます。ここでは「非」を以って「酒飲人」なる概念全体を一つの固まりとして否定するのです。またもし文語文を「酒は之を飲むと雖も、飲まるる勿れ」の如くした場合は、

酒雖飲之、勿被飲焉

となりますが、こうしますと前半の句が「酒」についての叙述であるのに対して、後半の句が「人」についての叙述になり間違いではないが、この短い句ではちょっと落ち着かない。即ち「酒は飲むのはよいが、誰かに其の酒を飲まれてしまわんように」との意と区別がつかない。論語集註に以下の如き句があります。

富若可求、則為賤役以求之、亦所不辭

「富、若し求めべくんば、則ち身賎役を為して以って之を求むと雖も、亦辞せざるところなり」と訓みます。なぜ「為 賤役以求之」ではないのか。注原文は「身」についての叙述ではなく、「富みが求めることのできる場合」についての叙述であります。「其の場合」がたとい「身賎役を為して以って之を求める場合」であるとも「辞せざる場合」である、の意なのです。すべて「場合」なる上位概念に属しておるのです。仮に「則雖身為賤役以求之」を削って、「富若可求、亦所不辭」とすれば、これが「富若可求」についての叙述であることが明瞭であります。即ち「富、求むべきが若(ごと)き、亦た辞せざるところなり」と。

此れを「酒雖飲之、勿被飲焉」の「雖飲之」を削った場合と比較してみてください。「酒、勿被飲焉(酒は飲まるる勿れ)」となってしまう。「酒は」と題目を掲げおくにも関わらず、「勿被飲焉」という叙述の内容は「酒」についてではなく「人」についてであります。依ってもし「勿被飲焉」の句を用いたければ、「人」を主題とした句に改めればよいのです。たとえば、

人雖飲酒、勿被飲焉

の如くします。「人は酒を飲むと雖も、飲まるる勿れ」と訓みます。

以下表題にあります通り批評的な内容を含みまして、ややもすれば露骨な駁論の如き感を抱かしむるに易きも、此れは徒に対者を毀誉褒貶するの為にあらずして、ただ松下文法に準拠した場合の説との比較に便ならしむる為でありまして、こうすることで従来の漢文教授が如何に浅薄なるものであるかを明らかにしようというわけであります。

某ブログでは、まづ漢文の基本的な構造を説明し、最後に和文に読み下した文を再びもとの漢文に戻す作業である復文のやり方を紹介しておるのであります。其の説明に対して以下のことを述べてみたい。

  1. 単独論と相関論との混雑
  2. 自身の説明に於ける矛盾

一、単独論と相関論の混雑

単独論とはEtymologyのことで、相関論とはSyntaxのことでありますが、従来の参考書の類は本来明確に区別すべきこの二者を概ね混同しております。即ち、文の構造を説くに「主語+動詞+目的語」の如くしておる。「動詞」は品詞であり単独論に属すものでありますが、それに対峙せしむるに「主語」や「目的語」などの文の成分、即ち相関論に属す用語を以ってしておるわけです。異なる界限のものを同等の立場にて並列しておるのです。もし此れを松下文法に従って分解すれば、「主語+叙述語」とまづ分解され、而して後、叙述語の内部を再び分解して、「帰着語+客語」の如くすることになります。主語も叙述語も帰着語も客語も皆文の成分であります。

  • 「我愛之」の分解例

某ブログ) 我(主語) + 愛(動詞) + 之(目的語)

 

松下文法) 我(主語) + 愛之(叙述語)

叙述語を更に分解して、 愛(帰着語) + 之(客語)

この分解の仕方の差異がどういう影響をもたらすかといいますと、例えば、「泥棒を追跡する警察官」を漢訳した場合、以下の如き差が出ます。

(従来の分解) 追跡泥棒(修飾語) + 警察官(被修飾語)

「追跡」と「泥棒」がこれ以上分解できない。なんとなれば仮に分解したところが、「追跡」に対する名目がないからであります。

 

(松下文法の分解) 追跡泥棒(連体語) + 警察官(被連体語)

連体語を更に分解して、 追跡(帰着語) + 泥棒(客語)

松下文法に則れば如何なる詞と詞との関係も徹底的に分解できるのです。松下文法では「追跡泥棒」の如き詞を連詞的動詞といいます。連詞と言いますのは「詞」と「詞」とが連なっておるから連詞というのです。即ち「追跡」という動詞と、「泥棒」という名詞とが文法的関係(この場合は帰着語と客語との関係で客体関係という)で統合せられておる。次になぜに連詞的「動詞」というのかと申しますと、連詞は必ず従属と統率との関係で統合しておりまして、必ず一方が代表部(統率部)で、他方が従属部となります。「追跡泥棒」で言えば、「追跡」が代表部となります。要しますに「追跡泥棒」は事物を表すのでなく、事件を表しておるのですから、概念の代表部は帰着語である「追跡」になるのです。追跡の対象が何であれ、とにかくこの連詞は追跡という事件を表しておるのです。依って連詞的動詞とはいうのです。この連詞的動詞をそのまま一つの事物と看做して他の帰着語に対して客語とすることもできる。たとえば「好追跡泥棒(泥棒を追跡するを好む)」の如きであります(この場合の「追跡泥棒」は動詞性名詞と言いまして名詞化しております)。これまた出来た結果として「好」を代表部とする一つの連詞的動詞でありまして、これを連体格的に運用して名詞の上に冠せば「好追跡泥棒(之)警察官(泥棒を追跡するを好む(の)警察官)」となる。連体関係の連詞は被連体語、今の例で言えば「警察官」(名詞)が代表部となりますから、「好追跡泥棒(之)警察官」を松下文法では連詞的名詞というわけです。連詞的名詞も要するに名詞でありますから、帰着語に対して客語になれる、仮に「好追跡泥棒(之)警察官」を「X」とおいて、「悪X(Xを悪(にく)む)」とする。「X」を元に戻せば「悪好追跡泥棒(之)警察官」となる。即ち「泥棒を追跡するを好む警察官を悪(にく)む」となるのであります。複雑な句に見えますが、簡略化して示せば「悪+警察官」であります。「警察官」にいろいろな修飾語がついておるだけで其れを取ってしまえばなんと言うことは無い。敢えて連詞の中身を複雑にしましたが、其の複雑なものも分析してしまえば、上述の如き道理であるわけであります。この道理が分ってしまえば、漢文がよく見えるようになってくると思う。

また某ブログでは漢文と英文とを比較して所謂「助動詞」の説明をしておるのでありますが、文の成分としての詞の概念を明確にしない為に、漢文の「可」の如き詞を英語の助動詞(auxiliary verb)と同じであると謂ったそのすぐ後に、これを日本語の助動詞に比すと言うことを何の躊躇も無く致してしまうのだろうと思う。英語の助動詞は文字通り「verb」であります。助的動詞であります。今で言う補助動詞です。其れに対して日本語の助動詞は動詞ではないから助的動詞とは謂えない。また動詞を助けるばかりでなく、「(我は)太郎なり」の如く名詞を助けることもあるのですから、動詞を助けるというわけでもない。要しますに日本語の所謂助動詞は動詞的性質はあるが、詞ではなく辞(詞の材料)であります。其れに対して漢文の「可」も英文の「can」も皆詞であります。次元が異なるのです。英独語に謂う助動詞と国文法に謂う助動詞とは文法的に全く異なるものであることを意識していただきたい。「可」は一字でも文として成立しますが、日本語の「べし」は其れのみにては決して文を成さないのであります。こういう簡単な現象を無視しないことであります。

「可」を読み下して「べし」とする慣習ではありますが、直訳的には英語の助動詞と同じなんだと自身に言い聞かせることです。たとえば「是可以楽而忘死矣」は普通「是れ以って楽しんで死を忘るべし」と訓まれますが、「可」を詞として直訳すれば、「是れ以って楽しんで死を忘るるに可なり」とでもすればよい。こうすれば「可」の依拠性動詞なる性能が大体日本語の依拠性動詞として訳されておるわけでありますから、直訳に近い。文法的意義と解釈的意義とを混同しないことです。如何なる解釈的意義も其の根本は文法的意義にあるのでありますから、我々は本を尋ねるべきであり、末に恋々たるには及ばんのです。

 

二、自身の説明に於ける矛盾

某ブログに曰く、

「修飾語は被修飾語の前に来る」

 

「名詞を修飾するものは名詞の前だけど、動詞を修飾するものも動詞の前。たとえば英語ならcome from Japan(日本から来る)と動詞comeの後ろに前置詞句from Japanがくるけど、漢文の場合は「自倭国来」と動詞「来る」の前に「自倭国(倭国より)」が入る。」

この原理にどこまでも従うものならば恕すべきに庶からんも、其の直ぐ後に、

「〈置き字〉で一番良く出てくる「於」は前置詞なんだけど、あまりにもいろんな使われ方をするんで、いっそ文字自体は読まないことにして、送り仮名を取り替えることで処理したんだ」

 

「「於」は前置詞だけで5つくらい意味・機能がある。英語で言うとinとかformとかtoとか、比較のthanとか受け身のbyとかね。」

とありまして、「自」も「於」も氏の説明に依れば前置詞と看做しておるようであります。それはよい。実際、「自倭国来」の如く漢文に於いては修飾語が必ず被修飾語の前に来る(倒置は除く)。しかし、「王委政於尹氏(王、政を尹氏に委す)」の如きはどうするか。「於」は前置詞ではないと言えば已む、然るに苟も前置詞と認めたからにはこれに対して説明を施さなければ、「修飾語は被修飾語の前に来る」という最初の説が成り立たなくなる。そもそも「自」に於いてすら「歩自雪堂(雪堂より歩す)」(後赤壁賦)の如き例は幾らもある。これらの「自」や「於」を皆前置詞と言うのみにて、其の實、動詞の後ろに来る場合を無視するのでは漢文学徒の悩みは救われまい。

松下文法に則れば、これら(歩自雪堂や王委政於尹氏)の「自」や「於」を前置詞性動詞と謂う。要しますに動詞であるというのです。実質的意義は他詞に依り補充するも、其れ自身に叙述性があると言い切っておるのです。これこそ真摯な学者の言葉でありましょう。此くの如き「自」や「於」が形式的意義をのみ持つ動詞であるとすればこそ、某氏の説にもある通り「修飾語は被修飾語の前に来る」という大前提が担保せられ、漢文の詞の排列が英文の如き乱雑なものでないことが理論的にも明らかにせられるのであります。